ことばに咲く。

色々模索しながら生きてます




天災で、人が死ぬということ


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誰を、何を責めればいいのかわからない状態が一番つらいと思う。それはどんな状況でもそうだ。

 

 

例えば、仕事で何かやらかしたこと、成績が上手く伸びないこと、友人のように出世できないこと、恋愛・就職がうまくいかないこと。どう考えても自分の責任で、現状の結果を招いている場合は自分を責めるしかない。それはそれで別の苦しみが伴うのだけど、一番やるせないのは、論理的に考えても考えても、何かのせいに出来ない場合ではないだろうか。

 

 

 

天災なんかは、まさにそうだ。

その場にいた自分が悪いのか?そんなこと予測できなかったのだから仕方がない。

予測できなかった予報のせいか?そもそも私たちは予報を信じない傾向にあるじゃないか。

天気が悪いのか?天気のせいにして一生お天道様に悪態をつき続けるのも違う。

誰が悪いのか?そんなの誰も分からない。

 

 

 

なぜなら、誰も悪くはないから。悪者がいないストーリーは、とても辛いバイキンマンがいないアンパンマンは、絶対に面白くはないだろう。

 

 

 

天災が起きるたびに感じるのは、無力感である。「なんて不条理なんだろう、こういう運命だったのだろうか」などと言って、悪役がいない世界で私たちは”運命”とやらのせいにしたりする。それは何かしらの理由が欲しいからだ。

 

 

 

「筋が通っているもの=理解できるもの」であり、「筋が全く通っていないもの=理解できないもの」である。理解できないものを理解するためには、何らかの記号を用いる、つまりレッテルを貼ったり、神とやらを用いたりするのが一番簡単だ。(宗教をバカにしているのではありません)

 

 

 

なんで、どうして、私だけ。

こんな考えも、生じてくるものだ。他の多くは経験してないじゃないか、なんで自分なんだ、今まで普通に暮らしてきて、何も悪いことなんてしていない。普通に生まれて、ちゃんと勉強もしてきて、仕事もして、家族も友人も恋人もいて、不自由なく暮らしている。他人を貶めようとしたり、蔑んだり、苦しめたりしていないはずだ。なのに、なんで、なんで、どうして・・・・・。

 

 

 

この問いに答えは用意されていない。無慈悲である。悪者がいないことは、当事者を最も苦しめるのではないかと思う。復讐に燃えればいいと言っているのではないけれど、でも「理解できない不条理」に対して、人間は圧倒的に不利だ。だって理解できないのだから、考えられる範疇を越えている。原因不明の病気も同じような問いを生じさせるだろう。

 

 

 

「あらゆる偶然が重なって生み出された必然」なのだろうか。

人はいつか必ず死ぬ。でもそれが”今でなければならない理由”は、誰も教えてはくれない。いつでも訪れるはずの死は、本当はいつでも良くなんかないはずなのに。

 

 

 

こういうとき、人は一番人らしくなる気がしている。よく分からないものを受け入れなければならない苦しさを、一生懸命に自分の中で咀嚼し、自分なりに消化していく過程が。

 

 

 

当事者だけじゃない。死を感じる空気というものが、たしかに存在していると思う。いつだったか、私たちは絶望した。また同じような絶望と向き合わなければならないとしても、そこに理由を求めてはならない。

 

 

 

「どうしてだろうね、分からないね、悔しいね、もどかしいね、苦しいね。」そう言って泣きながら、次の階段が見えるまでそっと手を添えて歩き続けるしかないのだろう。