終わりのないCSRと、私たちは何をしてしまったのかについて
CSRとは、企業が倫理的観点から事業活動を通じて、自主的に社会に貢献する責任のことである。と、Wikipediaにはある。
CSRは就活生へのアピールになる、こともあるかも知れないし、投資家からの評判が良い、かもしれない。ESG投資という、環境・社会・企業統治に配慮している企業を重視して行なう投資もある。
でもすべてのCSR的活動は、「何となく他の企業もやってるし」、「それが流行ってきたから」、という理由でやってるという側面もある。大なり小なり、すべての慈善的活動にはマイナスな感情もともなう。
CSRよりCSVだ!とか、ISO26000だ!とか、次はサーキュラーエコノミーだ!とか、企業の社会的責任を取り巻くもろもろはかなり変化してきた。学生でふむふむと学んでいた私も、ついに企業の勤め人となってしまったのだから時の流れははやい。
働いてみて感じるのは、多くの人にとってCSRは遠いということ。自分の売上、自分の給料が第一なのは当然だし、回りまわって金になると言われようと、やはり多数は目の前の幸福につきっきりになってしまう。
CSRが盛り上がってきた背景には、やっぱり社会的活動は金になるという認識が生まれたからこそだと感じる。
それまでは、なんだか胡散臭いひとたちが環境問題とか何だかんだ言ってる、みたいな感じだったような気がする。公害問題が酷くなって、それがとりあえずは落ち着いてきた1900年のおわりくらいから、じわじわと環境問題は取り沙汰されるようになっていた。
だけどその当時は、偽善的な印象が強かったのではないだろうか。環境に優しくしましょう、地球を守りましょう、リユースリデュースリサイクルしましょう、と。
それが、少しずつ変わってきた。
日本だけでなく世界が変わってきた。「環境に優しくしましょう」と教わった子どもたちが大人になった。多くの子どもが、「ここまで酷い状況であることを知りながら、大人は何もしていないけれど大丈夫なのか?」と不安に思いながらも、それを無視して大人になってしまっただろう。
そうしてCSRやCSVが盛り上がりを見せるのは2000年に入ってから。NIKEの児童労働問題や大企業の環境破壊についてなどが報じられてから、少しずつCSRやら環境問題やらがアカデミックにまとめられ始めた。学問としてCSRを学ぶ人も出てきて、いよいよ企業の在り方が問われ始めた。
環境に優しい、労働者に優しい、そんな素敵な企業になりさえすれば、きっと人もお金も集まってみんなハッピーになれる。2020年に突入した今、何となく上記のようなコンセンサスが取られている。逆に言えば、お金や優秀な人を集めるには、ちゃんとCSRにも力を入れましょうね、という考え方がまかり通るようになってしまったのだ。
企業は大きくあらねばならない。昨年の売上を上回り続けなければ、活動している意味がない。そのようなサラリーマンガチ勢な考え方は、まぁ根深く残ってはいるけれど、そんなんクソ喰らえだ!自分にとっての幸せがあればそれでいいんだ!という人だってめちゃくちゃ増えてきてはいる。
だけど、金になるから、環境に優しくしましょう。なんて。
そんなロジックがあるならば、金なんかなくなってしまえばいいのに。
私は、お金に執着しなければ生きられない現代人と、自分の現実に虚しさを感じた。お金がなくたって、儲からなくたって、それでも誰かを救いたいとか、自然を護りたいとか、そんな心が人間にあれば良かった。あればよかった。
だけど、人間にはそんな心はない。そんな美しい心だけが、すべての人類に通じているわけが無い。それが現実だ。
貨幣経済によってビジネスが生まれ、経済が生まれ、それらと社会問題が合わさって、CSRという考え方が生まれた。そもそも、お金を中心にまわっていくのは当然のことなのだ。
そう、分かっているのだけど。だけど少しくらい、絶望したい。美しくない私たちに、美しくないと言いたい。それくらい、やったっていいんじゃないかと思う。
過去の人類とこれからの人類どの戦い。ナウシカみたいに、やっぱり人間は自分で自分の首を絞め続けるような気がしている。
自分をひとりのホモ・サピエンスだと考えれば、どう考えてもこの地球はおかしくなってきている。2000年代を生きるものとして、つぎの3000年、5000年を生きる誰かに恥ずかしくない生き方をしたいけれど。
私たちは何をしてしまったんだろうな。
答えはないことをわかっていても、この問いを忘れずに生きることに意味があると信じている。