死にたがりの朝井リョウと、真顔で冗談を言う伊坂幸太郎。「螺旋プロジェクト」読んでみた
狂ったように本を読んでいる。社会人になってからはほぼ毎週図書館へ行き、週に4-5冊は読むようになってしまった。その姿は浮世離れした山姥の知識欲を満たすが如し。一体どうしたんだろう、私。
最近、螺旋プロジェクトの2冊の本を読んだ。朝井リョウの『死にがいを求めて生きているの』と、伊坂幸太郎の『シーソーモンスター』である。
螺旋プロジェクトとは、一定の条件下で作家が各時代(原始〜未来まで)の担当となり、系譜を完成させるプロジェクト。"「海族」と「山族」、2つの種族の対立構造を描くこと"が規定として存在し、それ以外は担当の時代に合わせて自由に書いていい。
朝井リョウは平成、伊坂幸太郎は昭和〜近未来あたりを担当している。それぞれなかなかに長く、ハードカバーはなかなかに重かった。
朝井リョウが描く若者は、いつもちょっとくぐもったフィルターを通して、世界を見ている。彼らは私たちと同じようにスマホを使いこなしてSNSに傷つき、なんとなく大学へ行き、自分のやりたいことややらなければならないことについて常に考えている。そんな人たちだ。
物質的には満たされているはずなのに、なぜか死にたい-痛みを嫌うため、可能であれば苦しまずに"消えたい"という表現が正しいが-と考えていて、達観している。
国際紛争、原発、尖閣、外交、政治、環境問題…壮大な社会問題について考えたり、発信したり。それらがとてもかっこいいことのように思われたりも、する。『死にがい』に出てくるめぐみや与志樹は、そうやって自分にとって遠い出来事を"自分ごと化"できていると誤認し、虚栄心が拭えきれない。
ちなみに、朝井リョウの書く若者はよくNPO批判的なことを言ったりするけど、それは朝井リョウ自身のNPO界隈への畏怖のような感情から来ていると思われる。
お金じゃなくて、どれだけ社会貢献できるかって人たちがたくさん出てくる。素晴らしいんですよ、その姿勢。でも、読みながら「自分は、……こうはなれないよな」って。
そう。きっと大多数の人が、「こうはなれない」。そんな生き方を選ぶことが怖い。でも、"そんな生き方"を選ぶ人がいることは事実であり、彼らの中に葛藤があることも、また事実だということ。それを、朝井リョウは静かに語ってくる。
そして次第に、登場人物たちは自分がヒーローにはなれないことを知る。他者を思っていたはずの行動は知らず識らずのうちに自分本位のものとなり、あるいは最初から自分本位のものであったと知り、その事実が苦しくて、もがく。
ひょっとして、若者の姿なんていつの時代も同じようなものなのかもしれない。私たちは同じように苦しみながら、傷つき血を流して、それでも歩いていく。そうしていつのまにか、半分子どもだったはずの身体がすっかり大人になってしまったことに気付く日がやってくる。(今の私である)
自己投影できる作品は、やはり読了後に爽快感がある。朝井リョウは、めちゃくちゃ心理描写が上手い。だからみんな、魔法にかかるのだ。若者の絶望体験を、一緒にゆっくりとなぞることが出来る。平成を代表する作家(そうらしいよ)は、やっぱり平成生まれの私の心を掴んで離してはくれない。
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伊坂幸太郎は、ピエロのような人だ。彼の作品からは、全く想像もつかない展開が繰り広げられ、かと思えば人の心理の核心をつき、何事もなかったかのように物語は終焉を迎える。
こんな作品、書ける人は伊坂幸太郎くらいだろう。本当に、何が起こるかわからない。ふざけているようで、全くふざけてないのだけど、おいお前やっぱふざけてんだろ、なんて言いたくなる。
『シーソーモンスター』では、遺伝子レベルで気が合わない妻と姑の関係性を描く。この2人、実は似た者同士なのでは…という事実が次々と明かされ、最後はぎゅんっ!と駆け抜けていくスピード感が半端ない。相変わらずしれっとした顔で冗談を言ってくるから、その冗談が冗談であったことに気付くのに、半歩遅れてしまうのだ。
伊坂幸太郎が支持されるのは、日常と似通っている非日常へ連れてってくれる奇妙な世界観と、おどけたピエロの筆運びが唯一無二だからだろう。悔しいほど、面白い。くー。
螺旋プロジェクト、もしかしてこの2人しか売れてないのでは…とか考えてしまうけど、作家が同じテーマのもとで書く作品を読むなんて、こんな体験は初めてだった。ううむ、いいね、表面はちゃんとコーティングされてるのに、それをカリッと破ると作家の味が染み付いている独特な中身が出てくる、クレームブリュレ的な感じがいい。
読書の秋。鈴虫の鳴き声を聴きながら、ゆっくりとページをめくる夜のお供に、おすすめな作品です。