夏休みの図書館に漂う、青春の匂い
図書館は、夏の間大忙し。読書感想文を書くために、受験勉強をするために、夏期講習の宿題をするために。たくさんの子どもたちが足を運ぶからだ。
…と、図書館で働く母から聞いた。
真夏の図書館は、なんだかそわそわする。じっとしてることが上手にできない子どもたちが、それでも懸命に机にかじりついて学ぼうとしている。楽しそうなひそひそ声が聞こえてくる。
夏休み中の、だぁれもいない学校とか、野球部の練習試合とか、嫌に冷房が強くかかった職員室とか、そういうものを思い出す。
せいしゅん、なんてものは幻想に過ぎなくても、その一瞬一瞬が記憶の底にあるだけで、胸がこんなにもきゅんとする。
今思うと、感情が荒削りで、まるで箱庭の中にいるかのような10代のひとときは、やっぱり何にも変えがたいものだと感じる。そう思えるくらい、平和な日々を過ごせたことを幸福に感じる。
戻りたくはない。でも、ずっと大切にしたい。誰にも取られたくない。そんな宝物を、誰もがきっと持っているんだろうな。
けしからん。たった一つの記憶のかけらだけで、人を殺すほど暑い夏でも、こんなに愛おしく感じられるのだ。
【ミニマムに贅沢をする】一生使える生活の道具まとめ
「モノを少なくしたい。なるべくなら、長く愛着を持って、モノを大切にしたい。」
ミニマリスト、断捨離、こんまり、などが一通り世間で流行っても、それでもまぁ経済は回るわけで。売られるモノの数が激減するわけでもなく、むしろ『ミニマリストになるには』みたいな本が売られてたりもするのが現状だ。
矛盾してますね。やっぱモノを少なくするにはスキルが必要だ!と設定する方が、経済的にはありがたいことなのでしょう。
なんだか踊らされてる感は否めないけど、私も冒頭に述べたような感情がある。大切に作られたものを、使う側として責任を持って大切に使う。毎日のことだからこそ、一つひとつのモノを大切にしたい。
別に高いものを買うことを推進しているわけではない。私の家族なんかは割と100均が好きで、それを(本人曰く)長く使えるからそれでいいと言っている。
当然、モノへの態度は千差万別でいい。私の価値観では、高くても良いもの・長く使えるものがいいなと感じられるというだけのこと。
というとで今回は、私が買った&これから買いたい「一生使える」生活のプロダクトを紹介します。この記事に辿り着いた誰かにとって、最高の一品との出会いを作れたりなんかしたら、もう嬉しすぎてどうしようという感じです。全部素敵なので、ちょろっとだけでもぜひ見てみてくださいね。
イケウチオーガニックのタオル
言わずと知れたタオルの街、愛媛県今治市に1953年に創業したIKEUCHI ORGANIC。2073年までに“赤ちゃんが食べられるタオルを創る”という次の安全性基準を企業の行動指針として設定しています。
コレねー、わたしまだ買ってないんですけど、人生のうちに必ず絶対に100%欲しいと思っています。買います、買いますよ。でももうちょっとこの期待を楽しませてくれ・・・!
顔を洗ったとき、食器を洗ったとき、掃除をしたあと、トイレに行ったあと・・・タオルは毎日触れるものだから、赤ちゃんが口に入れても問題ないものを作ろう。そのまっすぐさがとても素敵だなと思うのです。
こちらのWebメディアもおすすめ。作り手の想いを伝える努力をしている企業です。ikeuchinahito.com
naotの靴
イスラエルの靴ブランド、naot。革靴を取り扱う、とってもおしゃれで素敵なブランドです。私は最近サンダルを買いました!
ヘブライ語で“オアシス”を意味するNAOTの靴は、 まるで砂の上を素足で歩くかのようなやさしい履き心地です。
ふかふかと柔らかなインソールは足裏に馴染み、革の風合いも個性豊かに育ちます。
靴を「育てる」という考え方。履いて、ダメになったら捨てて、さよなら。じゃなくて、一緒に生活して、ケアして、支え合って、寄り添う。それがnaotの靴です。おすすめ。
ちなみに、サイトにはブログがかなりの量投稿されていて、靴選びにとっても便利。店舗が東京の蔵前かか奈良にしかないので、オンラインで買ったとしてもイメージしやすいです。
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mother houseのバッグ
もうソーシャル界隈では相当有名ですね、mother house。「途上国から世界に通用するブランドをつくる。」をコンセプトに、バッグからジュエリー、ストール、洋服まで幅広く扱っています。
フェアトレード云々じゃなくて、一緒に対等にモノづくりをしよう!という心意気がなんとも素敵。バッグから始まったブランドなので、バッグのバリエーションが多い印象。
私は毎日、お仕事用バッグで使っています。名刺入れとかも揃えたいな。
プロダクトの人気もさることながら、代表の山口絵理子さんの著書も、相当読まれています。このブランドが社会に与えた影響を考えると、やはり凄いことだなと感じずにはいられません。
裸でも生きる ~25歳女性起業家の号泣戦記~ (講談社+α文庫)
- 作者: 山口絵理子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2015/09/18
- メディア: 文庫
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ALL YOURSの服
着ていることすら忘れてしまおう。
そこにはかっこいいも悪いも存在しない。
ただ "あなたらしさ" がそこにあるだけでいい。
なんとも現代っぽいメッセージ。雑誌とかTVとかから受けた影響ばっかり追いかけるのはやめて、ただ自分らしくあろう、と問いかけています。
2015年から始まり、クラウドファンディングを繰り返してみんなに支持されてきたブランド。池尻大橋に店舗があるそうです。あぁ、人生にとける服が私も欲しいな・・・。
EVERY DENIMのデニム
2015年、兄弟によって立ち上げられた岡山発のデニムブランド。TVで取り上げられたりして、割と有名になっていったような気がします。
これのね、シャツがね〜〜、欲しいんだよな〜〜。デニムって本当にプチプラでもたっっくさんあるけど、デザイン的にもプロダクトの耐性的にも本当に長く使えるものって少ないように感じます。
店舗を持たず、全国を旅して販売する兄弟の面白さ、斬新さも魅力の1つでしょう。
MUKUのネクタイ
知的障がいのあるアーティストが描くアート作品をプロダクトに落とし込み、社会に提案するブランド。クラウドファンディングもたまにやってらっしゃいますね。
あえて、おすすめ品をネクタイにしました。私はネクタイを締める機会はないのだけど、MUKUのネクタイはとってもおしゃれで日常的に使える人が羨ましい。アートとかデザインが好きな人なら、プレゼントにも絶対いい。
おわりに
実用レビューじゃなくて、ほぼほぼ私の「コレ欲しい」が詰まった記事になってしまいました…。社会に出たばかりの小娘にはまだお財布的に買えないものばかりですが(泣)、まぁ全部揃えるのなんて本当に大変なので、一歩ずつ進んでいくことにしています。
今すぐじゃなくても、いつかは。ちゃんとその「いつか」を忘れずにいれる人ならば、「いつか」は自分を鼓舞するマイルストーンになるはずです。すぐに行動することを美徳として生きると、息苦しくなってしまうからね。
それに、自分の消費活動を見直すには、自分の価値観と向き合うことを避けて通れません。今身の回りにあるモノ全て、あなたの意思によって引き寄せられ、求められたもの。貰い物だって、それを残しておくことを選択しているのは自分自身なわけです。
「私は何に投資をして生きているのか?」ぜひ一度、棚卸しをしてみませんか?モノを通してこそよく見える、新しい自分と出会えるかも知れませんよ。
「丁寧さ」のちから
髪を切ってから生きやすくなった気がする。髪が長かった時代を振り返るたび、当時はとても無理をしていたなぁと思う。髪の毛を染めたり、巻いたり、いい香りのするスプレーをつけたり、なんて。本当は性に合ってなかったのだろう。
美容師さんが「絶対に可愛くしますよ!」とか「モテる髪型にしますね」と言ってくれるのは、とても嬉しい、ような気がしていた。でも何だかこそばゆくて。
「間違ってはいないんだけど、確かに可愛くなりたいしモテたいけど、なんか違うんだよなぁ」と、美容師さんにインスタ用の写真を撮られながら感じていた。
得体の知れない、違和感。そんな状態だから、美容院ジプシーがずっと続いていた。
そんな折、先日赴いた美容院で、その違和感の正体が分かったのだ。
オーガニックにこだわった、素敵な美容院だった。こんなに丁寧に髪を染めてもらったことは、今まで一度だってない。何度も何度も、丁寧に。これまで通っていた美容院との扱いの違いに、とても驚いてしまった。
「丁寧さ」の損失。それは、ある意味若さなのかも知れない。どこか荒削りで、不器用な感じは、掛け替えのないものだ。
だけど、一度「丁寧であること」の価値を知ってしまったら、もう元には戻れない。その居心地の良さに、心がとらわれてしまう。きっと私は可愛くなりたいしモテたいけど、それよりも前に、"自分が納得のいくサービスであること"を重視したかったのだ。
こうやって人は成長していくのだろうか。いや、そもそもこれを成長と呼べるのだろうか?
いつもより丁寧に、優しく化粧水をつけながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
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コンセプトは「末長く楽しめる髪をあなたに」。
お客様に心底薦めたい「続く」モノだけを選びたい。美容室「らふる」店長・中村さんの審美眼と哲学|イケウチな人たち。 | 好きな人たちと考える、これからの豊かさ
誰も見下したくなんかないのに
あなたはこういう人だ、と決めつけられることに耐えられない。「これ、好きそう」とか「そういうの得意そう」とか、そういうのも嫌いだ。
思うにこれは、他人に簡単に理解されたくない気持ちの表れだと思う。私のことなんかちっとも知らないくせに、と。分かった気になって言葉にしてくる人に耐えられない。例え、それによって本当に理解を促進していたとしてもだ。
だから私は、他人を決して理解できないことを念頭に置く。あらゆる可能性を残しておいて、ラベリングしないように、丁寧に丁寧に相手を見る。言葉にするとなんか怖いけどね…笑。
他人に自分を規定されることが、心地良いと感じる人もいるはずだ。どこへ行けばいいのか、道標があって欲しいと願う人はいるだろう。そして同時に、それに耐えられない人もいるということ。道標なんてなくたって、自分で道を決めたい人だっているんだ。
「あぁそうですか、あなたからはそう見えるんですね」と一言で線を引いて、関係ないと割り切れればいいだけの話だけど。それがとっても難しいのである。
ラベリングされたとき、私はその人を見下してると思う。「こいつ、見た目しか見てねぇ」とか「表面上だけの会話しかできない人だ」とか。そういうとき、自分の一番嫌なところが見えて、それがまた私の機嫌を悪くさせる。
なんて性格が悪いのだろう、と思う。
頑張ってSNSで発信してる人を見ているとき、クラウドファンディングをしてる人と出会ったとき、夢を叶えようと行動してる人を見かけたとき。
そういうときも、私はどこかで彼ら彼女らを見下している。見下すという言葉が正しいのか分からないけど、とにかく"自分の人生の外側の人たち"と認識してしまうのだ。ほら、自分だって結局はラベリングしてるんだ。
誰も見下したくないのに、こんな感情抱きたくないのに、心と反して自然と湧き上がる抗えない衝動のようなものがある。
感情を手放したい、でも。難しいな、生きてくのは。こんなやつ、と思えば思うほど、私の中でその人に対する気持ちが量的に増加していく。
それらが愛とか親しみとか、そういうものの裏返しであって欲しいと。心の底から願ってやまないけれど、それも只の善人の仮面なのかも知れない。