日々のブログ

Un Chien Andalou

自立とは、ググる力を持ってること

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4月から社会人かぁ、なんてぼんやり考えている。”学生”から”社会人”という肩書きに変わるに当たって、「いや、別に大して変わらんだろ」と思う反面、「いよいよ私も社会人なのね!えっへん!」という気持ちがないわけでもない。大人と子ども、学生と社会人、なんて、人間が作った適当な境界線でしかないけど、少なからず人の心に大きな変化をもたらすらしい。

 

 

 

私は、結構自立という言葉で自分の首を締めてきた気がする。それは多分、親が貧しかった影響が大きい。

 

 

 

「自分は大学に行けるんだ、恵まれてるんだ」

「自立しなきゃ、頑張らなきゃ」

「社会人になるまで、ちゃんと自分のやりたいことを見つけなきゃ」

 

 

 

こんな焦りで、学生時代をひた走ってきた。休んでいる暇はない、もう全力疾走である。給水スペースを蹴散らしてひたすらに走っている傍迷惑な猪でしかなかった、まじで。

 

 

 

でもそのおかげで、大学卒業を控えるいま、自分のやりたいこと、一緒にいたい人、目指す大人像、みたいなものがハッキリしている。体調を崩したり躓いたり泣いたり笑ったりしながら、もがいてきた。それは、自立するためであり、自分で満足のいく生活を営むためだったんだと思う。

 

 

 

でも、自立するって何だろう?一人暮らしをしていたら、社会人になったら、それは自立と呼べるのだろうか?私は今、自立してないのだろうか?

 

 

 

私自身、そんなの分からなかった。というか、こういう問いは、多分永遠に答えなんて出ないことをわかっていて、それでも考えてしまう類のものだ。「人生に意味なんてあるのか」とか、そういうのはつい考えてしまうものだ。考える人自身の生きてきた経験や知識に大きく左右されてしまうけれど、人それぞれ、という一言では終わらせたくないんだろう。

 

 

 

一般化しやすいのは、経済的自立と、精神的自立の2つ。前者は自分が生活できるだけのお金を稼ぐこと、後者は誰かに極端に依存することなく生活ができること。これをクリアしてしまった人は、一応自立していると呼べる、ような気がしている。

 

 

 

実際、「ここから先が自立ですよ」という線なんてない。「20歳から先が大人ですよ」と言われて、「3、2、1…はい、おめでとうございます!大人の始まり始まり〜!」と変わるわけじゃないのと同じ。多くの大人は、「え?まぁ多分、自立してるんじゃないですかねぇ…」くらいの感覚でいる気がする。

 

 

 

 

自立という言葉に付随してパッと思いつくのが、この言葉だ。

 

 

自立とは、依存先を増やすこと

www.univcoop.or.jp

 

 

依存先を増やせること、頼れる先を持っていること。それが自立だという。この言葉は結構有名で、自立という言葉を目にすると自然と思い浮かんでくる。

 

 

 

でも依存先を増やす、って結構重くない?とか思ってしまう。自立しなきゃしなきゃ!みたいに焦ってきたから、もっとラクに考えたいと思ってしまう私のエゴのせいだろうか。

 

 

 

今の時代、何かしんどいことがあった時、分からないことがあった時、大抵のことは検索すれば出てくる。特に若い世代はそれが当たり前になっているから、Google先生に聞いてみれば、大抵のことは解決するなと思ってしまう。

 

 

 

この「検索できる力」みたいなものは、そんなに変わらないように見えて、人それぞれ違うものだと思う。検索できるということは、自分なりに問いを見つけて、それを言語化する作業が伴う。特定の単語が分からなかったら単語のニュアンスを考えるし、日本語で得られない情報なら英語とか海外のサイトへ飛ぶ。簡単な作業のようだけど、工夫一つで大きく変わる。そこでたどり着ける情報源の質や量によって、その人の人生にじんわりと影響を与えている気がしてならない。

 

 

 

たぶん、私にとっての自立は「問いを立てて、追求できること」だ。問いを追求し続けていれば、自然と人との交流が生まれていく。だって自分の経験や考えの範疇だけで解決しないことの方が多いじゃない。そういう場合、他者を頼ることが必要不可欠になってくるはず。「自分で立つ」ということは、その二本の脚でどこまででも行くことができるということだ。

 

 

 

経済的に自立している、とか、そういうのも重要だけれど。「自立」という言葉の先にある真意はそれだけじゃない、ということは多くの人が気づいている。私にとっては、問いを立てて追求できること。めちゃくちゃラフに言えば、「ググれる力」だ。

 

 

 

Google先生に聞いてみよう。分からなくても大丈夫、みんな最初は初心者なんだよ。分からないこと、不安に思うことを恥ずかしがらずに、ちゃんと正直になれることって大事だ。そりゃ、Google先生も完璧じゃないし、別にGoogleだけに拘る必要はないけれど。完璧な答えなんて探す前に、行動してみる。私が後悔のない4年を過ごせたのも、「やりたいことってなんだろう、私は何がしたいんだろう」という問いを立てて追求する、自分なりの「自立」がある程度出来ていたからだと思う。

 

 

 

人それぞれの、色んな要素が混ざり合った「自立」があっていい。ある部分では自立できてたり、他の部分ではできてなかったり、そんなのも日々変わるはずだ。私自身、学生生活にある程度満足してるからといって、自立できてるとは中々言えない。

 

 

 

完璧に「私、自立した!」なんて声高に言えるのは、まだまだ先のことになりそう。でもいつか自立したと自覚したときに、またこの記事を読み返したい、なんて思ったりした。

 

 

 

初めてお題に沿って書いてみたり。日々思ってることを掘り起こす感覚がしました。たまには良いかもしれないなぁ〜☺︎

【混同してない?】ブロガー、ライター、コラムニストの違い

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ブログを書いたり、SNSで情報発信する人が増えてきていますね。TwitterでもInstagramでもTik Tokでも、もはや誰が消費者(受け取る側)で誰が生産者(発信する側)なのかの境目は無くなっています。時代です、そう、そんな時代。

 

 

 

特に最近見るのはブロガーさんたちの乱立。私がTwitterでブロガーさんたちをフォローしているせいもありますが、Twitterを眺めていると、本当にすごいです。

 

 

 

「ブログで稼ぐぜ!」「今月〇〇万でした!」「今アフィリで2円稼いだ!」「今月のPV数レポートと来月の目標は…」「やっと1記事書き終わった〜」などなど。その勢いに若干押されている筆者です、はい。

 

 

 

ブログで収益を得ている人は、主に広告収入になると思うんです。(情報商材もありますが)行くところまで行くとブログで生計を立てられるようになり、”プロブロガー”なんて呼ばれたりもする。でも収益を得るには、有益な情報=読者が欲しい情報を書いて、読まれるブログにすることが必要不可欠です。多くの人に広告を見てもらうために、PV数はやっぱり大事。

 

 

 

なので、【自分が発信したい内容×なるべく多くの人に読まれる内容】これがブログの鉄則でしょう。いや、実際これもうね、レッドオーシャン過ぎて中々難しいですよ。

 

 

 

でも、ブログやってる全員が、そういった”収益を目指す”ブロガーというわけではありません。日記のように書いている人もいれば、楽しいから続けている人もいる。近年あまりにも”ブログ=金を稼ぐ道具”という考えが流布していて、どうも違和感を抱いてしまいます。

 

 

 

私自身、アフィリエイト(広告)は入れていません。ライター活動の延長線上にブログがあり、このブログはいわば文字を書くための筋トレです。日々の由無し事を綴ることで頭の中を整理したり、自分の表現の癖を見つけたりもする。

 

 

 

同じ文字を扱う情報発信でも、その手法は本当に様々なのです。

 

 

 

ということで今回は、何だか曖昧になってきている”ブロガー”、”ライター”、”コラムニスト”の違いを考えていきたいと思います。

 

 

 

 

ブロガーとは

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いっちゃえば、ブログを書いている人=ブロガーです。でも、そもそも”ブログ”ってどう言う意味なのでしょうか。

 

 

「Web」と「Log」の造語「Weblogウェブログ) 」で、

「Webに残される記録」を意味する。

Blog・ブログ - 語源由来辞典

 

 

らしいです。なるほどー!Weblogの略だったんですね。 何とブログの生誕は1999年のこと。2001年のアメリ同時多発テロを機に、新しい情報ツールとして認識され始めたと言います。めちゃくちゃ最近やん。

 

 

 

で、日本では2003年〜2005年にブログの絶頂期が。何と「ブログ」が2005年の流行語大賞だって!やばい。ちなみに、はてなブログは2011年スタートだとか。前身のはてなダイアリーは2003年からあったみたいです。

 

 

↓こちらにまとまっていました

bloggingfrom.tv

 

 

で、”ブロガー”はそんなブログを書く人のこと。自分のブログに広告を貼って、お礼に企業からお金を頂く、なんてこともできちゃいます。生計を立てるまでは行かずとも、立派な副業にはなっちゃいます。

 

 

 

有名なブロガーさん、実は私あんまり知らないんですけど…イケハヤさんはもう、一般常識レベルにはなってきていますよね。

 

 

↓プロブロガー&インフルエンサー。色々と大変そうですが、やっぱりすごいです。

まだ東京で消耗してるの?

 

 

 

ライターとは

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ちょっと分かりにくいのが”ライター”と言う職業。えーっと、一言で言うならお金をもらって文章を書いている人たちのことですね。

 

 

 

Web上の記事だったり、雑誌のインタビューだったり。専ら取材したり調べたりして言葉に書き起こし、表現する作業が必要になります。企業や個人が「こういう記事、書いて欲しいんだよね」って要望に応えるように文章を作っていく。クライアントワークですね。

 

 

 

ブロガーも、読み手を意識する点ではライターと同じです。でも、ブロガーは発信媒体自体の管理も自分で行ないますが、ライターはメディア自体を運営しているわけではありません。あくまで書き手。”ライター”=Writerという言葉通りです。

 

 

 

興味のないような不本意な内容でも、ライターとして取材先と協力し、1つのものを作り上げていく必要があります。自分の好きなことばかり書いていれば良いわけでもないので、「書くことが好き!」という気持ちだけでは続けられないのも難しい。意外とシビアなのがライターという職業です。

 

 

 

コラムニストとは

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主張したいことや自分の経験を言葉にして、お金をもらう人ですね。一見簡単そうな感じしますけど、これは圧倒的に書き手の個性と魅力に左右されます。読者が「〇〇さんの文章なら読もう」となるように、すでにある領域で知名度がある人じゃないと難しいです。じゃないと読まれないです、そもそも。

 

 

 

似た職業に”エッセイスト”がありますね。混同しがちですが、コラムニストとエッセイストの違いは著作権にあるそうなんです。

 

 

コラムニストの執筆したコラムの著作権は、掲載された新聞や雑誌、ウェブサイトなどを運営する新聞社や出版社などに帰属します。

コラムニストとエッセイストの違い | コラムニストの仕事、なるには、給料、資格 | 職業情報サイトCareer Garden

 

 

これが、エッセイストだと個人に帰属するようです。とっても似ていますが、やはり違いはあるんですね。

 

 

 

”エッセイ”は日本語で”随筆”と呼ばれることもあり、歴史を遡ると『枕草子』とかも含まれます。どちらかと言うと個人の色が強いのがエッセイスト、The・クライアントワークがコラムニスト、という印象です。

 

 

 

体験や経験を元に、自らの主張を絞り出していく。素敵な職業ですが、ハードルは高いですね。コラムニストとして生きていくと言うよりは、本業兼コラムニスト、が一番しっくりくるような気がしています。

 

 

 

まとめ

はい、いかがでしたでしょうか。まとめると、こんな感じです↓

 

 

 

ブロガー=個人でブログを書いて発信してる人(一部収益化してる人もいる)

 

ライター=企業や個人からお金をもらって、クライアントが意図する文章を書く人

 

コラムニスト=企業や個人からお金をもらって、自分の体験や主張を書く人

 

 

 

どんな人でも情報発信できるからこそ、その人自身の信頼が重要になってきています。でも人間の根本って、どの側面から見ても実はそんなに変わらないのかもしれないですね。

 

 

 

「こういう言葉を紡ぐ人なんだ」

「こういう態度をとる人なんだ」

「こういう絵を描く人なんだ」

 

 

 

全部ぜんぶ、実は情報発信になっているはず。だからこそ、細かいところまで自分らしく、丁寧に作っていくこと。その重要性が見えてきたなぁ〜、なんて感じる今日この頃です。

恋というより愛の人

 

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恋することが苦手である。

 

 

 

恋ってなんだろう、って考えたとき、それは多分人を好きになるということだと思うんです。何に惹かれるかは人それぞれだけど、そこに確かな何かがあるはずで。

 

 

 

恋する、というより恋に落ちるというのかな。どうしようもなく好き、みたいな感覚が、きっと多くの人にもあるだろう。何はともあれ好きだと。たとえ何があっても、多分おそらく99.9%の確率で私はあなたを応援したいと思う、という感情がある。

 

 

 

私の場合、ふと気づけばそれはあっさりと恋を通り越して、愛になっている。

 

 

 

ちなみにこれは男女関係がありません。「この人のここが素敵だ」と思ってしまったら、そこから抜け出せないというか、惚れた弱み的な重さが加わってしまう。よほどのことがない限り、その人の助けになりたいと思う。思ってしまう。

 

 

 

つまり恋の過程をすっ飛ばして、直感的に人を愛してしまう。

 

 

 

もちろん誰でもいいわけではない。むしろそんな風に思える人は少ない、なかなかいない。年代問わず誰とでも上辺で仲良くなれるし、どんな人とでも話せるけれど、誰とでも深い仲にはなれない。そういう人は思った以上に多い気がしている。八方美人とも言えるだろう。

 

 

 

一体何が恋で、どこからが愛なのかわからない。そこの境目なんて本当は存在しないのかもしれないけれど。恋愛だったら、というか男女間の問題なら、それは肉体関係を持てるか否かみたいなところが関わってくるかも知れない。だけど、それだけじゃない。普通の人間関係においても、気がつけば他人を愛してしまうのだ。それは自分で制御できるようなシロモノではない。

 

 

 

愛とはなんぞやとGoogle先生に聞いてみると、こんな答えが返ってきた。

 

そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持。

  • かわいがり、いつくしむ心。「子にそそぐ―」。いつくしみ恵むこと。「神の―」。いたわりの心。
     「人類―」
  • 大事なものとして慕う心。
     「母への―」。特に、男女間の慕い寄る心。恋。

 

 

 

そうか、そうか。そうだよなぁ。男女関係なく、他人に磁石みたいに引きつけられてしまう。自分自身の磁力が強いということだろうか。

 

 

 

また、調べていたら作家・平野啓一郎氏のこんな言葉があった。

 

愛とは、他者のおかげで自分を愛せるようになること

 

 

 

誰かを愛することより、自分を愛することの方が何倍も難しい。誰かのおかげで自分を愛せるようになれたのなら、それが究極の愛なのだという。書いてて恥ずかしくなるくらいの、まっすぐで生々しい言葉だ。

 

 

 

確かに、「この人と一緒にいるときの私、好きだなぁ」なんて思えるってことは、大抵その人は自分の大切な人だろう。自分だけじゃない、自分と相手がいて、初めて愛とか恋とかは成立する。当たり前のようだけど、そういえばそうなんだったと改めて気づかされる。

 

logmi.jp

 

 

 

軽く触れ合うことなんてできなくて、直接手を突っ込んで腹を探り合う事しかできない。恋ができずに愛する事しかできない、なんて。一言で言えばめっちゃくちゃ重い(笑)。でもこの重さが軽くなることは多分ないから、仕方ない。

 

 

 

自分は恋というより愛の人。きっと、ただそれだけのことだろう。

言葉にすることで失われるもの

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言語がない世界ってどんな感じなんでしょう。例えば犬はどうやって会話をしているんだろうかとたまに思う。

 

 


基本的に、私たち人間からはただ"吠える"だけに聞こえるコミュニケーションも、実はものすごく計算されているものだったりして。「この前散歩のときに会ったポチってやつ、めっちゃ言葉遣い綺麗だったわ」とかあるのかな。それとも「あいつの吠え方はちょっと関西の訛りがきいてるよね」とか?「あの犬はイケボだわん」とか?犬のイケボってどんな感じのやつなんだろう。きゅんとする吠え方とかあるのかなやっぱ。

 

 


犬に限らず、人以外の生物はインターネット上に文字を残したり、書いたり彫ったりして文字を残すことはあまりしないから(今のところは)、余計直接のコミュニケーションが大事なんだろうな。録音とかも出来ないしね。

 

 


考えれば考えるほど、なんだか人は言語以外のコミュニケーション手段に対して弱い気がする。言葉がなければ全く理解出来ないとまでは行かないけれど、言葉を通して世界を見ている人類だもの、言葉に頼ってる部分は大きい。

 

 


言葉がなかったとして、例えば水をどうやって表現できようか。透明、液体、海、雨、という単語もない。そんな中であの、なんとも言えない存在をどう形容するのか。やっぱ仕草で表すとか、唸るとかそんな感じかな。いやー、そこから言語を発達させてきた先人たちには頭が上がらないですね、ほんとに。

 

 


だけど同時に、人はもう言葉からは逃れられないのだなぁとも思う。私が今使っている言葉は、恐らく50年後も100年後も200年後も、余程のことがない限り理解出来るものだと思う。それは、ある意味新しい表現方法の開発を放棄することでもある。

 

 


言語というものに胡座をかくしかなくて、もうそこからは暫く立ち上がれない。まぁ、もちろん多少は変わるけども…すげー変わるとは思えないんだよね。私たちだって夏目漱石の作品を読んだり、和歌を解読したり出来るわけで。プラトンとかアリストテレスとか、全く言語が異なる人たちの考えを知れるのも、残っている言葉たちのおかげ。

 

 


もちろん、言語以外のあらゆる表現活動も生まれてきた。それは、絵を描いたり映像を撮ったり、音を奏でたり身体を動かしたりすること。これからはもっと、プログラムを書くこととかITを駆使したものも活発になると思う。

 

 


だけど言葉は圧倒的だ。

朝目が覚めてから今日のニュースを読んで、「おはようございます」と言って朝が始まり、会議したりLINEしたりして過ごし、数字を追って買い物をし、テレビからあらゆる表現を受け取り、こうして活字を目で追ったりもしてる。

 

 


一方、言語で語れないものがあることも私たちは知っている。

 

 


言語隠蔽(げんごいんぺい)という概念をご存知だろうか。これは"言葉にすることで逆に伝わらないものがある"というもの。ある研究で、人の顔を覚えるために他人の特徴を言葉にした方が記憶に残るか、あるいは言葉にしない方が良いのかを実験したそうなんです。

 

 

 

で、結果はお察しの通り。言葉にしないで、感覚的に人の特徴を捉えた方が、より記憶に残るのだそうです。だから例えば、Aさんは眼鏡をかけていてカーディガンを羽織っていた…とかではなくて、「Aさん?あぁ、あのクリエイターっぽい人ね」とぼんやり記憶していた方がすぐ思い出せるということ。

 

 

 

この実験は他人の顔を覚えるという実験テーマに沿っていたけど、他のことでも当てはまりそうだなぁと。研究の結果は、こちらのブログに丁寧に書かれていたので、ちょっと引用させてもらいますね。

 

heuristic.exblog.jp

 

言語化は、閃きを必要とするような課題(洞察問題)の解決をむしろ妨害する。
ヒューリスティクス(の多く)はほぼ無意識的/自動的に作用する。言語化がその過程を妨害する可能性がある。
・意識的には考えない「暖め」(incubation)の時間が重要。無意識的な思考を示唆している。
・「直観 vs 分析」の違いに関連している可能性がある。

 

 

 

言語化は、突然の閃きとか柔軟に考えることを阻害する恐れがある。そう言われると、なんだかそんなもんかもなぁ、なんて思えてくるから不思議だ。

 

 

 

「ありがとう以上の言葉があったらいいのに」

「なんかよく分からないけど、あなたの全部が好き」

「無性にむしゃくしゃして仕方がない」

 

 

 

こういうことはよくあるだろう。感覚的なものだ。

 

 

 

私自身、日常生活において言葉にすることが苦手なので(ちゃんと時間をかけないと言葉にできない&分からない)困ることは多い。「なんでそう思うの?」とか、「感情ベースで考えすぎだよ」とか。言われる。

 

 

 

自分が出会った最高の映画の感想を聞かれて「めっちゃ良かった!何が良いかは分かんないんだけどね、とにかくめっちゃ良かった!!!!」って言ってしまう。だって分かんないの。その作品の、きっとコピーから衣装から雰囲気から女優から男優から音楽から映画館の雰囲気からカメラのフィルター、一緒に行った人まで全部ひっくるめて、その”良い”が生まれているのだから。一言二言でね、うまく言えないの。

 

 

 

ボキャ貧というやつかな(ボキャブラリーに乏しいこと)。そんな自分の特性に、なんとかならんものかな〜と思っていたけれど。でもなんだか、この言語隠蔽効果を知って、それでも良いかと思えた。

 

 

 

言葉にできなくっても別に良い。言葉だけが全てじゃないから。

 

 

 

SNSや情報発信が日常的に行われるようになって、目に入る情報は言葉で溢れている。そこから一歩下がって、感覚的な”好き”とか”良い”も大事にしたい。

 

 

 

重要な場面で人に伝えるための言葉は大事だけれど「生き物は本質的に感覚的な存在なんだ」という認識を、心の隅っこに置いておくことにしている。


あなたとの出会いにありがとう。またいつか。