日々のブログ

Un Chien Andalou

言葉にすることで失われるもの


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言語がない世界ってどんな感じなんでしょう。例えば犬はどうやって会話をしているんだろうかとたまに思う。

 

 


基本的に、私たち人間からはただ"吠える"だけに聞こえるコミュニケーションも、実はものすごく計算されているものだったりして。「この前散歩のときに会ったポチってやつ、めっちゃ言葉遣い綺麗だったわ」とかあるのかな。それとも「あいつの吠え方はちょっと関西の訛りがきいてるよね」とか?「あの犬はイケボだわん」とか?犬のイケボってどんな感じのやつなんだろう。きゅんとする吠え方とかあるのかなやっぱ。

 

 


犬に限らず、人以外の生物はインターネット上に文字を残したり、書いたり彫ったりして文字を残すことはあまりしないから(今のところは)、余計直接のコミュニケーションが大事なんだろうな。録音とかも出来ないしね。

 

 


考えれば考えるほど、なんだか人は言語以外のコミュニケーション手段に対して弱い気がする。言葉がなければ全く理解出来ないとまでは行かないけれど、言葉を通して世界を見ている人類だもの、言葉に頼ってる部分は大きい。

 

 


言葉がなかったとして、例えば水をどうやって表現できようか。透明、液体、海、雨、という単語もない。そんな中であの、なんとも言えない存在をどう形容するのか。やっぱ仕草で表すとか、唸るとかそんな感じかな。いやー、そこから言語を発達させてきた先人たちには頭が上がらないですね、ほんとに。

 

 


だけど同時に、人はもう言葉からは逃れられないのだなぁとも思う。私が今使っている言葉は、恐らく50年後も100年後も200年後も、余程のことがない限り理解出来るものだと思う。それは、ある意味新しい表現方法の開発を放棄することでもある。

 

 


言語というものに胡座をかくしかなくて、もうそこからは暫く立ち上がれない。まぁ、もちろん多少は変わるけども…すげー変わるとは思えないんだよね。私たちだって夏目漱石の作品を読んだり、和歌を解読したり出来るわけで。プラトンとかアリストテレスとか、全く言語が異なる人たちの考えを知れるのも、残っている言葉たちのおかげ。

 

 


もちろん、言語以外のあらゆる表現活動も生まれてきた。それは、絵を描いたり映像を撮ったり、音を奏でたり身体を動かしたりすること。これからはもっと、プログラムを書くこととかITを駆使したものも活発になると思う。

 

 


だけど言葉は圧倒的だ。

朝目が覚めてから今日のニュースを読んで、「おはようございます」と言って朝が始まり、会議したりLINEしたりして過ごし、数字を追って買い物をし、テレビからあらゆる表現を受け取り、こうして活字を目で追ったりもしてる。

 

 


一方、言語で語れないものがあることも私たちは知っている。

 

 


言語隠蔽(げんごいんぺい)という概念をご存知だろうか。これは"言葉にすることで逆に伝わらないものがある"というもの。ある研究で、人の顔を覚えるために他人の特徴を言葉にした方が記憶に残るか、あるいは言葉にしない方が良いのかを実験したそうなんです。

 

 

 

で、結果はお察しの通り。言葉にしないで、感覚的に人の特徴を捉えた方が、より記憶に残るのだそうです。だから例えば、Aさんは眼鏡をかけていてカーディガンを羽織っていた…とかではなくて、「Aさん?あぁ、あのクリエイターっぽい人ね」とぼんやり記憶していた方がすぐ思い出せるということ。

 

 

 

この実験は他人の顔を覚えるという実験テーマに沿っていたけど、他のことでも当てはまりそうだなぁと。研究の結果は、こちらのブログに丁寧に書かれていたので、ちょっと引用させてもらいますね。

 

heuristic.exblog.jp

 

言語化は、閃きを必要とするような課題(洞察問題)の解決をむしろ妨害する。
ヒューリスティクス(の多く)はほぼ無意識的/自動的に作用する。言語化がその過程を妨害する可能性がある。
・意識的には考えない「暖め」(incubation)の時間が重要。無意識的な思考を示唆している。
・「直観 vs 分析」の違いに関連している可能性がある。

 

 

 

言語化は、突然の閃きとか柔軟に考えることを阻害する恐れがある。そう言われると、なんだかそんなもんかもなぁ、なんて思えてくるから不思議だ。

 

 

 

「ありがとう以上の言葉があったらいいのに」

「なんかよく分からないけど、あなたの全部が好き」

「無性にむしゃくしゃして仕方がない」

 

 

 

こういうことはよくあるだろう。感覚的なものだ。

 

 

 

私自身、日常生活において言葉にすることが苦手なので(ちゃんと時間をかけないと言葉にできない&分からない)困ることは多い。「なんでそう思うの?」とか、「感情ベースで考えすぎだよ」とか。言われる。

 

 

 

自分が出会った最高の映画の感想を聞かれて「めっちゃ良かった!何が良いかは分かんないんだけどね、とにかくめっちゃ良かった!!!!」って言ってしまう。だって分かんないの。その作品の、きっとコピーから衣装から雰囲気から女優から男優から音楽から映画館の雰囲気からカメラのフィルター、一緒に行った人まで全部ひっくるめて、その”良い”が生まれているのだから。一言二言でね、うまく言えないの。

 

 

 

ボキャ貧というやつかな(ボキャブラリーに乏しいこと)。そんな自分の特性に、なんとかならんものかな〜と思っていたけれど。でもなんだか、この言語隠蔽効果を知って、それでも良いかと思えた。

 

 

 

言葉にできなくっても別に良い。言葉だけが全てじゃないから。

 

 

 

SNSや情報発信が日常的に行われるようになって、目に入る情報は言葉で溢れている。そこから一歩下がって、感覚的な”好き”とか”良い”も大事にしたい。

 

 

 

重要な場面で人に伝えるための言葉は大事だけれど「生き物は本質的に感覚的な存在なんだ」という認識を、心の隅っこに置いておくことにしている。


あなたとの出会いにありがとう。またいつか。