誰もが世界の貧困を知っているのに、手の差し伸べ方が分からない問題。
大学生になると、いわゆる”途上国”に行く人って増えますよね。
やはり大学という、比較的自由な時間を取れる機関に入ると、何かしら自分が見たことがないものや日本では感じられないものに興味を持つのは普通なのではないかなと思います。私もその一人なので、批判できないというのもありますが。
主にアジアを中心として、さまざまな学生団体やボランティア、NPO、スタディーツアーがあります。個人で行くなら別ですが、団体としてアフリカや南米、中東へ行くのは中々ないです。やはり航空券の金額や治安(これはどこも良いとは言えませんが)、距離的な遠さと心理的遠さが要因かも知れないですね。
さて、そんな感じでいわゆる開発途上国へ向かう多くの若者が、インスパイアされて日本に帰ってくるという現象が長く続いていると思われます。
そうして、「なんでこんなに格差があるのだろう」と疑問を抱いて悩み、苦しみ、心の中にどろどろとした罪悪感が生まれ、信じたくない事実を突きつけられます。
あるいは「自分より彼らの方が人生を心から楽しんでいる」と感じ、お金では測れない幸福を実感して、どう生きるかを深く考えるようになるとか。
最終的には、自分の幸福を全てなげうって誰かのために貢献する人はいません。でも、誰かのためになること自体が、自分の幸福になることもあります。自分のためだけでは頑張れることには限界がある、とはよく教わったものです。
ただ、私がこの問題を見るときに、どうしても不思議に感じてしまうことがあります。
それは、根本原因が難しすぎて何をしたらいいかサッパリ分からないということと、分からないからこそ大人になるにつれて無視される問題なのではないかということです。
貧困があることは、みんな知ってる
ですよね?
きっと、「途上国では子どもの○○人に一人が貧困で命を落とします」とか、「弱い立場の女性や子どもは犠牲になってしまう」とか、そんなことはもう多くの人は知っているのです。
ということは、例えば途上国支援のNGOの資金集め問題では、国民が知っている度合いに問題があることかもしれません。
なぜそのような事態に陥っているのか、現地で何が起きているのか、…
おそらくですが、現地の大人たちが子どもを見殺しにしているはずはありません。ただ、そうせざるを得ない状況にあるか、そうなってしまうことが恒常化した世界にいるか、だと思います。
そこが、一番難しいポイントです。
日本国内の貧困問題だって難しいのに、海外の問題を理解するなんてなかなかできることじゃない。
大学で真面目に(ここ重要)専門的に学んだ学生や教授、専門家ならともかく。
それを、一般市民にまで理解させようとすることは本当に困難。イベントとかを開催しても、どうしても「途上国支援に興味がある人」にしか刺さらない。
これって、結構時間とお金がかかることです。3つのステップで分けると、
①海外(相手国)の情勢を、歴史を踏まえて理解する(日本語に訳されていない論文なども調べて深堀する)
②日本が行っているODA、NGOの支援状況を考察する(良いところも悪いところもボロボロ出てくる)
③実施できる支援を考える
こんな感じだとは思いますが…。
…。
まぁ、なかなか出来ることじゃないですよね。大学生だって遊びたいみたいだし、大人になって就職してからはそんな研究に精を出す時間もお金もない。
だからやっぱり、一過性の支援活動や興味で終わってしまうことが多い。これはこれで、自分の人生観が変わるとか、刺激を受けるとか、そういった面では意味があるとは思います。
「困っている人を助ける」のは悪いこと?
途上国支援とか、国際協力とかって、批判を受けやすいと思います。国内の問題は無視か!とか、偽善か!とか。
私が街頭募金してたときは、「その時間(募金してる時間)バイトして寄付すれば?」とか「自分たちが渡航する費用を寄付すれば?」言われてしまったこともあります。いやぁ、厳しいですねぇ。
でもなんだか、私にとって途上国支援に関心を持つのはもの凄く普通のことで、特別でもなんでもないものなんです。
例えば、教室で隣の人が消しゴムを忘れて困っていたら、貸してあげるじゃないですか。それと同じです。
・・・・
助けられて生きてきたから、誰かを助けて生きようとするのは、人間としてごく普通のことなんじゃないかな、と。それが、たまたま国内の問題よりも海外の問題に注視しただけの話で。
国内の貧困とかって、結構見えにくいところがありますよね。「子供の貧困問題!」とか言っても、自分たちの周りは皆何不自由なく暮らしていて、大学にも行っている。そんな状況下にあれば、日本国内の貧困問題を直視するには、自ら行動する動機が必要になります。友人が貧しくて学校に行けてないとか。
なので、中高大学生が関心を持ちやすいのは、貧困がより可視化された途上国であるのは理解できるはずです。ごくごく、普通かなぁ~と。
そして、ライフステージや境遇によって、関心が違うのも当たり前のこと。
例えば、自分の子どもが障がいを抱えて生まれてきたら、障がい者支援に関心を向けざるを得ないでしょう。自分の父親が紛争地域で記者をしていたら、その地域に関心が向くのは普通のことです。
なので、「助けたい」気持ちをそのまま批判することは出来ないんじゃないかなと、思います。もちろん、その「どう助けるか」が問題なのだけど。
それでも、誰かのために、自分が心をふるわせて努力出来ること、それ自体は本当に素晴らしいことだと信じています。
手の差し伸べ方が分からないけど、分からないなりにおずおずと手を出してみる。
やっぱりずっと手を握りしめたままでは分からなかったものがあるんだろうと、思いたいんですよね。
「明日は今日よりきっと良い日になる」と信じることの効能
目次
幸福度調査というものがある。
世界中の人たちに、「あなたは今、幸せですか?」と聞いて、「はい」と答えた人がどれくらいの割合でいるのかを調査したもの。(たぶん)※後で詳述します
この文脈でよく語られるのは、「日本は先進国で、モノもサービスも溢れてこんなにも豊かなのに、幸福を実感している人がとても少ない」ということだ。
いわゆる”途上国”と呼ばれる国の人たちが、こちらを向いて笑顔で写っている写真なんかを見たことがあると思う。
それを指さして、ホラ、日本で電車に乗ってるサラリーマン(疲れてぐったりしていてさらに酒臭い、または満員電車で眉をひそめて「会社行きたくねー」とつぶやいている、または…以下略)よりもずっと幸せそうではないか!と言う人もいますね。
あるいは、日本と比べて貧しい環境にいながらも、笑顔を絶やさず生きる人たちになんだか勇気をもらったという人もいるでしょう。とくにこの日本でしか生活したことがない人、先進国でしか育ってない人にとって、その環境を本当に理解することは難しいと思います。
とにかく、日本人てそんなに不幸せなの?と思ってしまうようなニュース、統計をよく見かける。(厳密には不幸せではないにしても、自分を不幸せと感じている人がそんなに多いの?ということ)果たして本当なのだろうか。
最新版「世界幸福度調査2018」
以下こちらより抜粋
2018年の初めに発表された調査結果によれば、順位はこのようになっている。
1位 フィジー(92)
2位 コロンビア(87)
3位 フィリピン(84)
4位 メキシコ(82)
5位 ベトナム(77)
6位 カザフスタン(74)
6位 パプアニューギニア(74)…
カッコ内の数字は純粋幸福度(「幸福を感じている人の比率」-「不幸を感じている人の比率」)です。調査は5段階評価で、「5 とても幸せ 4 幸せ 3 幸せでも不幸でもない 2 不幸 1 とても不幸」としており、「5か4を選択した人の割合」から「2か1を選択した人の割合」を差し引いたものが純粋幸福度。
なるほど。いくら幸せを感じている人が多くても、同じだけ不幸を感じている人がいれば、相殺されるということですね。幸せを感じている人が50%いて、でも不幸を感じている人が50%いたら、純幸福度はゼロということです。まぁそりゃそうか。
調査対象国は55カ国で、純粋幸福度の平均値は48ポイント。前回は59ポイントだったので、世界の幸福度は20%弱も下がってしまったということでしょうか。
今回の調査で唯一90ポイント以上を獲得した「フィジー」は、前年も1位、その前が2位、その前は1位。直近の4年間で3回も1位を獲得している幸福先進国です。
しかもフィジーの幸福度は世界平均が20%近くも下がっている状況の中、前回の89ポイントから92ポイントへと高めています。
フィジー、すごいですね。 幸せな国と言えば、なんとなくブータンの記憶があるのですが…、前ブータンの人に、「それは恣意的なものなんだよ」と言われたこともあるので、まぁなんというか、やっぱり国民の総意とか調査って、そんなもんだよな、と。
一般化し過ぎるのは、何事も危険ですね。
日本の順位はいかに
で、気になる日本の順位なんですが。
18位 日本(54) ※昨年は25位
25位 アメリカ、ロシア(50)
35位 フランス(43)
37位 イギリス、イタリア、韓国(42)
41位 ドイツ(38)
日本は前回の55ポイントから1ポイント下げるも、下げ率が他国に比べて低く、18位と善戦。他の経済先進国のランキングは真ん中から下位あたりと、幸福途上国という結果に。
意外、けっこう上じゃないですか。と思ってしまうのは、期待値があまりに低かったからなんでしょかね(笑)。当然、聞き方とかターゲットにもよるんでしょうけど、まぁまぁ幸せ!、という感じでしょうか。
何を幸せとするか、それは豊かさの差で、多少は規定されてしまうのかもしれないです。本当に困窮した状態にあれば、他人に気を使う余裕もない。自分の生命維持が第一です。でもそれがある程度保証され続けると、他者とのつながり、感謝されることの喜び、地位の向上など、あらゆる”幸せ”の形が複数見えてきます。
注目はコロンビア
おや?
と思ったのは、コロンビアの順位(堂々第2位、純幸福度87%)です。コロンビアは内戦が50年以上も継続し、国内は混沌とした状態だったと記憶していたからです。
50年以上も内戦が続くって、サラッと書いてありますけど、大変なことです。人生の半分以上、危険な紛争、死と隣り合わせの状況が続くんです。
地球の裏側では、戦争なんて無関係だと、幸せそうにのんびりと生活している人たちが何億人もいるのに。それが当り前じゃない人たちが、こんなにも長く、苦しめられてきたんですね。
が、最近ではその内戦が落ち着いて、外資企業の投資も容易になり、経済は好転しているとのこと。治安があまり良くない地として有名なコロンビアも、こうして改善に向かっていくことだってあるんだ。そう実感しました。
「明日は今日よりきっと良い日になる」
幸福を語るにあたって、”未来へ期待できること”は大きいのではないかなと思います。例えばコロンビアは、今は日本と比べればインフラも経済も整っていないでしょう。だけど「幸せだ」と感じる人はたくさんいる。それは、きっとより良い未来が期待できるから。今よりももっと幸福な未来が待ち受けているのだと、胸を高鳴らせて一日を生きているから。
豊富な資源、豊かな生活が恒常化すれば、「今よりもっと良く」なって、一体何がしたいのか?自らが望むことなのか?それらが分からなくなって、麻痺してしまうこともあります。
お金だけを求めることはある意味正解で、ある意味間違っているようにも思います。”お金がなくては保証されないもの”は確かにある。でもそれだけがすべてではないのだと、お金を手にしてようやく気付くことが出来る。
なので「あいつは金にしか目が行ってない」って感じの人も、お金の先に何がしたいか、みたいな部分まで見てあげないといけなくて。お金も、やっぱり幸福を得るための一つの手段ですね。
自分にとっての幸せって、定義することが難しい。
あなたと私の”幸せ”はきっと違うし、今の私にとっての”幸せ”は、10年後の私の”幸せ”とは異なると思う。男女、年収の差、学歴、国籍、年齢、さまざま違う私たちは、それぞれの幸せがあっていい。
その幸せを一つひとつ噛みしめながら生きていれば、幸せがたくさん蓄積していく。そしてまた次の”幸せ”を求めていける。
今日はいくつの幸せに出会えたかな。
桜が咲いてた、天気が良かった、待ち合わせに間に合った、字が上手くかけた、なんでもいい。ふふっと思わず口角が上がってしまう瞬間が、きっとあった。
ちなみに、誰も「明日の方が今日よりも良い日ですよ」とは言ってないです。そんな神様みたいな役割やってる人は、まぁたまにいますけど、あんまりいない。ほぼいない。
でも信じるのはタダなのです。しかも自分で出来ることなのです。今すぐにでも。期待するのは、信じるのはタダ。信じた分だけガッカリしちゃっても、そこからまた跳ね上がる振れ幅も倍増するんです。
明日はどんな幸せが待っているのかな。
このワクワク感を忘れないで生きていくことは、あなたの人生の豊かさにきっと繋がるのではないかと、桜を見てふと思ったのです。
まだ間に合う。3月25日までに谷川俊太郎展に滑り込むべき3つの理由
谷川俊太郎という詩人がいる。
彼の名は、おそらく誰もが耳にしたことがあるだろう。
私の中で谷川俊太郎という人物が最も印象深く刻まれた作品は、中学時代に知った『信じる』という歌だ。
当時は合唱コンクールというものがあって、クラス一丸となってひとつの歌を発表する行事だった。各学年暗黙の了解として"いい歌"が存在し、毎年どのクラスがその"いい歌"を歌うことが許されるのか、それを競っていたようにも思う。
当時12-13歳だった私は、『信じる』を歌う先輩たちの歌の美しさに憧れた。鳥肌を身体にびっしりと感じた。そして優しい手で心臓をきゅっと掴んで離さないような、そんな感覚だった。
葉末の露がきらめく朝に
何を見つめる小鹿のひとみ
すべてのものが日々新しい
そんな世界を渡しは信じる
信じることは生きるみなもと
メロディもさる事ながら、その言葉の聡明さ、無駄なくひっそりと真理を問う鋭さが、私の心に届いていたのだろう。
さて、そんな谷川俊太郎の展示会があるという。私はこの展示会を、自分が尊敬する人のTwitterで知った。
詩という世界は不思議だ。
みんな同じ言語を使っている筈なのに、ある人の発する言葉は他の大勢よりも遥かに深い意味を持つ場合がある。
ともすれば小学生でも考えられるような無邪気な軽さで、一方で歳を重ねたからこそ分かるこの世の摂理を察するような重さで。その文字は人の心を打つ。
少ない言葉で伝えたいことを伝える難しさは、多くの人が感じているのではないだろうか。
さて、そんな詩人界の巨匠、谷川俊太郎展は私たちにどう語りかけるのか。
先日足を運んだ筆写が考える、その作品たちに触れるべき理由をお伝えしたいと思う。そしてたった一人でも、彼の作品を通して言葉の世界と向き合ってみて欲しい。
①言葉はアートなのだと思い知らされるから
入ってすぐのところにあるのが、言葉と音楽と色の世界。要は、谷川俊太郎氏ご本人の朗読と、音楽と、明朝体を基本とした文字がスクリーンに映し出される。
私はこの空間で、一気に持っていかれた。なんだろう、ずっと見ていたくなるような感覚だった。
一瞬、何を伝えようとしているのか分からなくて、解釈の難しさに思考停止してしまう。それくらいには前衛的。
右から左へ、そしてぐるっと一周駆け巡る。音と光と文字と。全てが私たちを包み込んで、別世界へ引っ張られる。
手を取って優しく、というよりは、強引に・豪快に。エッジが効いているぶん、とても心地のいい豪快さである。
でもだんだんと、これこそが「ことばあそび」なんだと感じられる。楽しさが生まれてくる。言葉も、アートというカテゴリーに入っていることを思い知らされる。
同時に、この”ひらがな”を理解できる自分で良かったなぁとも思った。このアートを理解できるのは、日本語が分かる人だけだ。
それは当たり前のことのようだが、この空間にいると、日本人としてこのアートに触れられることの素晴らしさを実感できる。
②懐かしさと新しさが見つかるから
例えば『スイミー』なんて、ものすごく有名。国語の教科書にも掲載されている。独特な絵と、素敵な物語に本質が詰まった作品だ。
「あ、これも谷川俊太郎作品だったんだ」
という発見は、この展示会にはたくさんある。
そして、それと同時に時代が違うからこその「新しさ」が見つかっていく。例えば私と同年代の20代前半の人たちからしてみれば、こういった「昔の」ものはノスタルジーを感じるより、新しさを感じることもあるはず。
とても素敵だ。懐かしさと新しさと、二つが混ざって不思議な空間を醸し出す。
このブースは「自己紹介」として、谷川俊太郎氏の私物、これまでの歴史などを表現したもの。写真撮影可。『自己紹介』という詩に合わせて、センス良く写真や作品、Tシャツなどが展示されている。
私は背の低い禿頭の老人です
もう半世紀以上のあいだ
名詞や動詞や助詞や形容詞や疑問符など
言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたから
どちらかというと無言を好みます
私は工具類が嫌いではありません
また樹木が灌木も含めて大好きですが
それらの名称を覚えるのは苦手です
私は過去の日付にあまり関心がなく
権威というものに反感をもっています
斜視で乱視で老眼です
家には仏壇も神棚もありませんが
室内に直結の巨大な郵便受けがあります
私にとって睡眠は快楽の一種です
夢は見ても目覚めたときには忘れています
ここに述べていることはすべて事実ですが
こうして言葉にしてしまうとどこか嘘くさい
別居の子ども二人孫四人犬猫は飼っていません
夏はほとんどTシャツで過ごします
私が書く言葉には値段がつくことがあります
―谷川俊太郎『自己紹介』
最後の一文でドキッとさせられませんか?私だけですか?(笑
あなたの言葉には、それはもう計り知れないほどの価値があるのでしょう。そうして生きていくことが、詩人という職業なのだと、静かに、でもハッキリと語っている。そんな気がした。
③言葉一つで人間性を表すと実感出来るから
最後のブースには、「3.3の質問」というもの。谷川俊太郎氏による3つの質問に対する著名人の回答が、スクリーン上に展示されている。
例えば『人を殺すとしたら、どのような方法で殺しますか?』
という谷川俊太郎氏の質問に対し、著名人はどのように答えたのでしょう。そして、あなたなら、どう答えるでしょうか。
その解答1つで、まるでその人の人物像が見えてくるよう。「あ~、やっぱりね」「私ならこうかな」「流石○○さん…」と、次々変わるスクリーンに飽きが来ない。
真理を突く質問に対しては、回答の仕方で人間性まであぶりだされてしまう。恐ろしい、けどすごい。問うことと答えること。普段何気なくやっていることですが、そこから見えてくるものって意外とたくさんあるのですね。
まとめ
①言葉はアートなのだと思い知らされるから
②懐かしさと新しさが見つかるから
③言葉一つで人間性を表すと実感出来るから
「詩の良さが分かるほど、美的センスがない」とか思ってしまう人でも、きっと楽しめるはず。考えさせられる”何か”が必ずあるから。
さぁ、あなたも美しい言葉の世界へ。
期間は3月25日までなので、残すところあと3日。場所は東京オペラシティ。新宿からすぐ近くです。
私はこの場所には初めていったけど、アート系の展示会も多いのでお世話になりそうです。
私はもう、歴史になっていますか。
そう問いかける彼に、いまを生きる一人の日本人として、何と返そうか。
やりたいことがない学生の受け皿となる企業の中で、やりたいこと(仮)を見つけてる社会人
多くないですか。
(表題)
私はいま、就職活動というものをしています。
シューカツってやつです。最近、黒いスーツにベージュのトレンチコートの人が多くないですか?それです、それです。そのうちの一人です。影分身ではないってばよ。
なぜこんな格好をせねばならないのか、それはこの格好が世間的に良しとされているからであり、決して好き好んでやってる訳ではないです。みんなそうか。
そんなわけで、多くの社会人とお話する機会があります。一対一のときもあるし、グルディス的な感じのときもあるし、一人の言葉を多くの学生が必死に聞いているときもある。
それで最近、多いなぁと思ったのが
「学生時代、君たちと同じように就活して…、(あーだこーだ)それで結局、やりたいことが見つからなくて。それで、じゃあどうしようかなって思ったときに、(なんとなく)成長できそうで、ビジョンに共感したから今の企業で働いてるんだ。」
って人。多くない?って思っちゃった。
もちろん就活も人生も、人それぞれだと思う。好きにしたらいい、好きに生きたらいい。なんだけど、「やりたいことがない」って人、すっっっごく多いよなぁ。って。
やりたいことがない人は、何を”やりたくないか”考えれば?
とか思ってしまう。
あと、私がもらったとてもいいアドバイスは、「長く続けてることって、本当は好きなことだし、やりたいことだったりするんじゃない」って言葉。それも一理ある。
私はわりと長いインターンでテレアポが苦手だと分かったし、英語で仕事するのは苦じゃないと分かったし、大きな組織の一部は何だか居心地が悪くて息苦しいなと思った。
何かしらやると、「あ、これあかん」か「あ、なんかいいかも」のどっちかの判断が下せるから良い。その勘を、私は結構な確率で信じるので、(これも悪い癖かもしれないけれど)その後は、自分で組み立てた基準に従うだけだ。簡単カンタン。
やりたいことはあるけど、踏み出せない人
も、いたりする。前者よりは少ないけど。
そういう人は、実はその「やりたいこと」は「心からのやりたいこと」ではなかったorきっかけを他人に求めているのどちらかが多い。
今すぐにでも踏み出せないんなら、それは別にやりたいことじゃないんじゃない?とか。「今じゃない」言い訳作っちゃうくらい弱い気持ちなら、それはあなたの実現させたい未来じゃないんじゃない?とか、思う。
他人にきっかけを作って欲しい人は、頑張って他人に頼るプロになるか、自分で切り開いていく覚悟をハラで決めるか、だと思うんですよねぇ。
「やりたいことがない」ことが正義
「やりたいことないんだよね、」
みたいな話をされると、「そそそそそうか、へぇー」くらいしか言えない私。
なぜあなたに「やりたいこと」がないのか、なぜ私が「やりたいこと」を見つけられたのか。それは一対一でしっかり話さないと分からないことだし、正直そこまで深く考えてやろうと思ってない(ごめん)。
そういう人は、「やりたいことないんだよねぇ(だから見つけたいんだよねぇ)」のパターンである。
そういう時は「とりあえず何かやってみれば?」くらいしか言えない。本当。
「私もやりたいことなんてねぇよ!」みたいに言っとけば、「だよな!」みたいな流れになっていくことは多いです。みんな不安なのです。
やりたいことがないって、別に恥ずべき事でもないでしょう。
人間誰もが憧れ通りに「やりたいことを自ら発見し、その目標に向かって突き進む」みたいな人生じゃなくてもいいんじゃないのかな。
やりたいことがないならないなりに、フラフラする時間も必要で。そんな血眼になって探しても、意外と近くにあったりもするから。
学生時代にやりたいことが見つからないと、正直焦ると思う。スゴイ人なんてたーくさんいるから。そういう人たちに、置いていかれた気になっちゃうから。
でも私は、大丈夫だって思える。たくさんの社会人と話していて、やっぱり素敵な大人は確かにいる。
あなたの人生を、やりたいことを、応援してくれる環境は必ずある。命があれば、あなたは、私は、自分で人生を描くことが出来る。誰かに描かれたものじゃなくて、自分で考えて、手を動かして描ける。
少なくとも、就活生にそんな風に思わせてくれる日本社会で良かったなぁと、思うのです。
嫌なニュースばかりに目を向けると悲しくなるけれど、そんな中でも小さな幸せや進歩を、自分の中にも見つけていきたいな、と。