日々のブログ

Un Chien Andalou

言葉に「重さ」はあると思いますか?


言葉が軽いな、と感じることがある。

 

 

 

相手に対して「あんまり言葉を選んでないだろ」と思うとき。「それって、みんな同じようなこと言ってるよね」と感じるとき。あるいは「そんなこと言ったっけ?」と自分の言葉がふわふわ宙ぶらりんになってしまったとき。

 

 

 

私は最近、なんだかよく言葉の軽さを感じている気がする。それはべつに誰かを糾弾している訳ではないのだけど、なんだか耳を塞ぎたいナァと思ってしまうのだ。

 

 

 

もしかしたら、ブログやnoteを読みすぎたのかもしれない。人生の中で触れられる価値観なんてたかが知れているにもかかわらず、タップするだけで得られる情報の海に疲弊してしまっているのだろうか。

 

 

 

「重さと軽さ」の比較で思い浮かぶのは、クンデラの『存在の耐えられない軽さ』だ。この作品はストーリーだけ見るとどうしようもない浮気物語なのだけど、何と言ってもタイトルが全てを物語っている。脆さとストーリーとを上手く表現したこのタイトル、著者のセンスが半端ではない。

 

 

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 

 

 

 

存在の耐えられない軽さ、である。一度読んだだけでは、私は理解できなかった。(初見では「は?存在?軽さ?えーっと???」となった)

 

 

 

要は自分の存在があまりに軽すぎて、薄っぺらくて、消えそうで、悲しくなってしまう(耐えられない)という意味だと思う。

 

 

 

そこで考えるのは、「存在に重さは存在するのか?」ということだ。物質的な質量の話ではもちろんなくて、目に見えない"存在"に重さがあるということ。それは一体どういうことなのだろう?

 

 

 

思いつくのは、例えば私とあなたが非常に仲の良い友人で最高の親友だったとすると、私の中であなたの存在は重いだろう。

 

 

 

あなたが困っていたらもちろん助けたいと思うし、定期的に会って話す時間が欲しいとも感じるだろう。

 

 

 

だけど、街ですれ違う全く知らない誰かの存在は、きっと軽く感じられる。その人がどんな気持ちでいま何をして過ごしていようと、全く関係がないものとして、まるでこの世に存在していないかのように感じられるのだ。(しかしその人は確かに100%存在している)

 

 

 

一方で、きっとその人の存在が重いと感じる人だっている。親や友人、恋人、同僚、もしかしたらSNSでのゆるい繋がりの中でも、その人自身の重さを感じている別の誰かがいるはずなのだ。

 

 

 

こう考えると、重さは当然ながら人によって異なると言える。"その人本来の重さ"なんていうものはなくて、常に"誰かから見たその人の重さ"があるのみだ。

 

 

 

言葉の話に戻ろう。

 

 

 

おそらく私から見て、インターネットに溢れている言葉が軽く感じられる、という、ただそれだけのことなのだろう。

 

 

 

そこに「いやいやちょっと待てよ、ネットにある言葉だって本に書かれてるのと同じ日本語だろ。むしろネットの方がリアタイだし本音だろ?何が違うん?」というツッコミをするのはナンセンスである。

 

 

 

"重さ"は人のフィルターを通してでしか表せないから。どうやら私たちは一人ひとり、全く別の計りを持っているらしいのだ。

 

 

 

重い言葉を読みたいときもあるし、軽い言葉に励まされるときだってある。そんなのきっと好き嫌いによって違うし、その人のライフステージとか状況によって全く異なる。

 

 

 

私はいま、どんな言葉がほしいのだろう?それは重いのだろうか、軽いのだろうか?一体何色で、読んだあとどんな気持ちになりたいのだろう?

 

 

 

答えはないけれど、たまには本気で自分のために言葉を選んでみてもいい。重さは人それぞれ。自分に聞いてみるしか計る方法はないのである。


あなたとの出会いにありがとう。またいつか。