日々のブログ

Un Chien Andalou

日本語で生きるのに向いてない


「あなたは間違えて日本に生まれてきちゃったんじゃない?」

かつてホストファミリーに言われたこの言葉は、当時大学1年生だった私の中で妙に腑に落ちた。

 

 

 

本当は、あるいは前世では、日本じゃなくて、英語圏で生まれていて。私は英語を使って暮らしていた。そうなのかもしれない。

 

 

 

まぁそんな幻想はさておき。ともかくホストファミリーは、なぜ私が英語を話すのか不思議に思って、そんな理由を作ったのだ。「日本人にしては英語得意だね」これはよく言われる言葉だった。(ちなみに褒められてるんだか貶されてるんだか、よく分からない)

 

 

 

でも、最近思うのだ。

私、たしかに日本語で生きていくのに向いてないのかもしれない、と。

 

 

 

日本語で考えると、どうでもいいことばかり考えてしまう。相手の言葉の裏の裏まで。なんと面倒くさいことだろうか!

 

 

 

例えば、前こんなエントリを書いた。

あなたはこういう人だ、と決めつけられることに耐えられない。「これ、好きそう」とか「そういうの得意そう」とか、そういうのも嫌いだ。

 

こういう感覚も、日本語だから生まれる。英語で言われたら、額面通りに受け取る。ような気がするのだ。

 

 

 

だって英語にしたら、「I thought you like this.(あなたコレ好きそうね)」みたいに、「私」= I が入る。そこには、「決めつけではなく私の一意見として述べるのだが」というようなニュアンスが付与され、それを感じ取ることができる。

 

 

 

全部言葉にするとこうだ。「私は、あなたがコレを好むだろうと予測する」。「お前コレ好きだろ」とかより、こっちの方がよっぽど好ましい。

 

 

 

日本で生きること、というより、日本語で生きることに難しさというか、窮屈さを感じている。でもその一方で、日本語の美しさも十二分に理解できる。夏目漱石とか日本語で読まなきゃダメだよな、あぁいうのは。

 

 

 

思考と言語は、否応無しにむすびつく。アンビバレントな感覚を払拭するには、海外で暮らすしか方法はないのだろうか?英語を話しているとき、開放感を感じるのはなぜだろう?でも英語だけでは表現できない感情だってあるような気もするが?

 

 

 

「私日本語に向いてないな〜」っていう人、ほかに居ないものだろうか?普段話してる言語に向き不向きがあるなんて、あんまり考えないかなぁ。でもひょっとしたら、英語じゃなくてもあなたらしさをもっと上手に表現できる言語が、この世界にあるかもしれないじゃないですか。

 

 

 

考えてもよく分からないけど、とにかく私は日本語と英語の2つと仲良くできる方法を探そうと思う。どんなに嫌でも、私たちは言語から離れられない。私という個体が終わるまで、こうやって誰かを想って言葉を紡いで、口に出したり出さなかったりして、日々を過ごす。それが結果として、生きるということになるのだと思うから。


あなたとの出会いにありがとう。またいつか。