「田舎でスローライフ」は都市住民のエゴなのか?
田舎という響きの良し悪しは、聴くひとの生まれや育ちによって大きく違ってくるんじゃないかと思う。
「地元とかまじでなんもないよ」
「田舎嫌い!」
「田舎にいてもやることないし」
と、いう話も聞く。そうなのか?実際、私には「田舎暮らしの辛さ」がさっぱり理解出来ないでいる。
でも最近、「地域おこし協力隊」とか「スローライフ」とか「パーマカルチャー」とか、そういった言葉や概念をよく耳にするようになって、だいぶ変わってきたように思う。「そういえば日本ってもっと広いんだったよな…」と、地方住民に対してとても失礼な感情をぼんやりと思い浮かべたりする。
これは私が頭が悪いからそうなのかもしれないけど、東京・神奈川・埼玉・千葉周辺以外の都道府県とか、正直どこにあるかよく分からなかった。…いや、分かるよ!北海道とか、沖縄とか、京都とか…でも…それ以外は…!ちょっと怪しい。
恐らく覚える努力をしなくても不自由無く生きていける情報なので、興味をもてなかったんだろう。小学校の教科書で習ったからといって強烈に記憶に残るはずがないじゃない。やっぱり行ってみないと地域に親近感は持てないものだ。
でも地方の学生の話を聞いていると、「田舎暮らしってなんかいいな」と思ってしまう。それは多分、自分にとっての「田舎」がある意味存在しないからなのだろう。実家は東京ではないにしても電車に乗れば1時間以内で渋谷に行けるし、家には車もない。(維持費が高いという理由もある)移動手段は電車かバスで事足りる地域に20数年間住んできた私は、地方での暮らしをよく知らないのだ。
最近ふと、この憧れの感情の裏には「おじいちゃん・おばあちゃんの家」があるのかもしれないと思い至った。
都市に住んでいても、大体の人は「おじいちゃん・おばあちゃんの家」が地方にあったりする。私もそうなのだが、父は幼い頃に捨てられてるので父方の実家はない。母方はどうかというと、3.11の被災区域なのである。
母方の実家自体は被害を受けることはなかったけど、あの日以来私の中で田舎は「怖い場所」になってしまったのだと思う。それくらい、大きすぎる出来事だった。
(こんな記事を書くのもそれが影響しているのだろう)
2011年に田舎を訪れたとき、私の中で何かが変わった。真っ黒い世界と泥だらけの瓦礫、地面に佇む船にシャッターを切る写真家、曲がった電信柱やぐにゃぐにゃのガードレール。目の前の景色全てから、確実に死の香りがした。
完全な被災当事者ではないから、もちろんショックの程度としてはそんなに大きくはないんだろう。私よりもしんどい思いをした人はたーーくさんいる。
今でこそ「せっかく行ったならボランティアとかしとけよ……」とも思うけど、14歳の少女にそれはちょっと酷な気もする。まぁそんな経験があるからこそ、今の自分があるのだとも思う。
ついでにその年におじいちゃんも亡くなった。原因は震災ではないけれど。おばあちゃんは私が産まれる前にもう居なかった。
だから「田舎のおじいちゃん、おばあちゃんの家」には私の中で憧れが強いんだと思う。
もし、3.11がなかったら?
あの景色を見ていなかったら?
4人の祖父母全員と会えていたら?
きっと何かが違っていた。そんなこと考えたって仕方ないけど。
「自然と温もりに溢れた、心身ともに安心できる場所」がどこかにあったら。それは素敵なことなんだろうなと思う。田舎暮らしへ憧れる多くの人は、「自分を迎えてくれる場所としての田舎」を求めている。そりゃあ、都市に比べたら不自由な暮らしになる。それも分かった上で、ちゃんと下調べもして経験もして、ようやっと厳しくも楽しいスローライフ(仮)が幕を開けるのだ。
ある意味、エゴだと思う。そんな居場所が地方や田舎にあるなんて、妄想だとも思う。ただ、人のあたたかさを気づかせてくれる環境は、地方の方が整っているのではないだろうか。だって不便じゃない。不便なら助け合って生きていかないとね。だから会話が生まれ、コミュニティがで出来て、やがて「地域」になっていくんだろう。
いつか自分も「帰る場所」が欲しいな。それは別に住む場所じゃなくてもいい。ただふらっと立ち寄って「久しぶり!よく来たね。」と言って笑ってくれる人が、世界のどこかに居るだけで。たぶん、今より素敵な毎日になる気がしているから。