日々のブログ

Un Chien Andalou

私は私が創り上げた「普通」になりたかった


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就職活動という、自分の人生を見つめ直す時間が与えられているなんて。なんて幸せなんだろうと思っている今日この頃です。

 

 

 

で、そのおかげで幼少期から大人までのいわゆる「自分史」を振り返る機会が多かったんです、最近。人に歴史あり。

そこで気付いたのが、私は「普通の人」にあこがれてたんだなぁということなんです。

 

 

 

「普通、こうするでしょ」

例えば、キラキラした高校生に憧れて。カッコよく踊っている先輩みたいになりたくて、ダンス部に入っていました。それは自分の中から出てくる欲ではなく、外部への憧れからきているものだったんですよね。

キラキラしていないと、置いていかれるような気がしたんです。だから、普通の高校生にならなきゃって思っていました。

 

 

 

本当は、美術部とかが合っていたはずで。今アートに関心があるのは、当時自然と感じていた”焦り”のせいで自分の興味に素直になれなかった結果、戻ってきたものなのかも知れない。

 

 

 

そして大学生になったらなったで、遊んでいる人が大半で。私は身近に大学生がいなかったので、大学は未知の存在でした。勝手に、すごく頭が良くて、もの凄く勉強するのかなって、思っていました。親が大学に行けなかった世代だから、羨ましいって言われて。

 

 

 

でも、予想していた「普通」は、「普通」じゃなかった。

多くの人がサークルに入って、バイトして、授業は寝て。

 

 

 

遊んでいるのが「普通」なんだ、そう思ったら、遊ぶ気はなくても遊んでいないとおかしいんじゃないかと考えてしまう。

「真面目だね」「意識高いね」その言葉が私の”普通じゃない”部分を強調しているみたいで、すごく嫌だったんです。

 

 

 

「普通」という虚像

”マイノリティなんていない”

そんな主張をTwitterで見かけたこともあります。

 

 

 

マジョリティ(=普通)はこうだから、こうしなきゃ。なんて、本当は考えなくても良いんですよね。

でも幼い視点からだと、自分以外の出来る人と比べてしまって、その人が世の中の大多数なんじゃないかって考えて、不安になってしまう

 

 

 

そして気づいたら、「普通」のクオリティ上がっていた。

健康に生まれて、健康に小学校に通い、しっかり学びながら中学校へ。高校で楽しく過ごしながら受験に合格。大学を出たら企業に入って、しばらくして結婚して、子どもを産む。そして働くなりなんなりしながら、育児と自己実現を目指して暮らして、死ぬ。

 

 

 

こうやって、普通を追いかけていくのって、正直すごく辛い。無駄な使命感に縛られて、レールに乗れなかった時に自分の無力感を感じてしまうから。

 

 

 

"普通"が主語になるってことは、外部対象から自分の歩む道を進むことかも知れない。

もちろんそれで良い場合だってある。その方が良い、って人がいたって構わない。

 

 

 

でも、私はそうじゃなかった。

普通はどうだっていい。

本当は、「私は」こうなんだって、言いたかった。

 

 

 

そのことに気づかずに、ごく自然と他者と自分を比べて、社会の空気を読んだつもりになって生きていた。

 

 

 

だけど。

自分のキャリアを決めていく段階になって、普通を追い求める意思決定は、私にとって苦しいものだと分かってしまったら。

もう周りを意識するのなんて、馬鹿らしいと思えてくる。

 

 

 

きっとこうやって、私たちは本当の自分を、見たくない自分の姿を、知っていくんだろうだなぁって、思ったりした。


あなたとの出会いにありがとう。またいつか。