たとえ理解できなくとも、他人のこだわりを馬鹿にする人にはなりたくない
アイシャドウって、なんであんなに色がたくさんあるのだろう。それ以外にも、ネイルとか、洋服の色とか、なにやら女子の周りは「ニュアンスカラー」や「ありそうでなかった色」、「コピーが面白い色名」が気に入られやすい。あれは何なんだろう。
「べつにどれも一緒じゃん」という、絶対に彼女には言ってはいけないNGワードが頭をよぎる私は、一般論で言えばだいぶ冷めてしまっている気がする。
でも、些細なこだわりを持つことで、なんてことない生活がぎゅっと素敵になることも、わかる。
他の人から見たらどうでもいいと思われるかもしれないけど、譲れないものがあるなら、それはとても素晴らしいことだろう。なぜならそれこそが、きっと自分自身を形成する核のようなものだから。
西村佳哲さんの著書にでてくる、"立春"の話を思い出す。立春とは、春らしくなってきた時期を言う。それを踏襲するならば"自立"とは、自分らしさが見つかった状態のことを言うのだと。「なんとなく、あなたらしいね」そんな"らしさ"があるからこそ、自立できる。そんなことが書いてあった。
その、そこはかとない"らしさ"は、きっと他人からすぐ理解されるなんてものではない。時間をかけてゆっくりと、お互いの心のかたちを確かめ合うようにして、何となく"わかった気"になる。
寂しいけれど、人と人は完全に溶け合うことはできないから、ぜんぶが誤解である可能性だってあるんだろう。だけどそれでも、他者を理解したい気持ちを素直に捨てられる人は、本当はほとんどいないような気がしている。
「べつにどれも一緒じゃん」。
そう思ってしまうことは否定しない。でもそのあとで、「まぁあなたがそれを好きなら、いいか」と思い直せるような、そんな心を持つ人でありたいなと思う。
日本語で生きるのに向いてない
「あなたは間違えて日本に生まれてきちゃったんじゃない?」
かつてホストファミリーに言われたこの言葉は、当時大学1年生だった私の中で妙に腑に落ちた。
本当は、あるいは前世では、日本じゃなくて、英語圏で生まれていて。私は英語を使って暮らしていた。そうなのかもしれない。
まぁそんな幻想はさておき。ともかくホストファミリーは、なぜ私が英語を話すのか不思議に思って、そんな理由を作ったのだ。「日本人にしては英語得意だね」これはよく言われる言葉だった。(ちなみに褒められてるんだか貶されてるんだか、よく分からない)
でも、最近思うのだ。
私、たしかに日本語で生きていくのに向いてないのかもしれない、と。
日本語で考えると、どうでもいいことばかり考えてしまう。相手の言葉の裏の裏まで。なんと面倒くさいことだろうか!
例えば、前こんなエントリを書いた。
あなたはこういう人だ、と決めつけられることに耐えられない。「これ、好きそう」とか「そういうの得意そう」とか、そういうのも嫌いだ。
こういう感覚も、日本語だから生まれる。英語で言われたら、額面通りに受け取る。ような気がするのだ。
だって英語にしたら、「I thought you like this.(あなたコレ好きそうね)」みたいに、「私」= I が入る。そこには、「決めつけではなく私の一意見として述べるのだが」というようなニュアンスが付与され、それを感じ取ることができる。
全部言葉にするとこうだ。「私は、あなたがコレを好むだろうと予測する」。「お前コレ好きだろ」とかより、こっちの方がよっぽど好ましい。
日本で生きること、というより、日本語で生きることに難しさというか、窮屈さを感じている。でもその一方で、日本語の美しさも十二分に理解できる。夏目漱石とか日本語で読まなきゃダメだよな、あぁいうのは。
思考と言語は、否応無しにむすびつく。アンビバレントな感覚を払拭するには、海外で暮らすしか方法はないのだろうか?英語を話しているとき、開放感を感じるのはなぜだろう?でも英語だけでは表現できない感情だってあるような気もするが?
「私日本語に向いてないな〜」っていう人、ほかに居ないものだろうか?普段話してる言語に向き不向きがあるなんて、あんまり考えないかなぁ。でもひょっとしたら、英語じゃなくてもあなたらしさをもっと上手に表現できる言語が、この世界にあるかもしれないじゃないですか。
考えてもよく分からないけど、とにかく私は日本語と英語の2つと仲良くできる方法を探そうと思う。どんなに嫌でも、私たちは言語から離れられない。私という個体が終わるまで、こうやって誰かを想って言葉を紡いで、口に出したり出さなかったりして、日々を過ごす。それが結果として、生きるということになるのだと思うから。
「デザイン」って言えばなんでもかんでもカッコ良く見えてしまう病
デザインを勉強したいなぁと思い始めて早1年を超えました。去年の夏は、就職先どうこうでまだ迷いがあった。今思うと、本当に素晴らしい出会いがあって、充実した日々だったなぁと感じる。
で、とにかく私は就職先を決めるとき、「デザイナーになりたいかもな」と考えていた。
自分が共感するブランドや組織を広める仕事がしたい。ユーザーや社会に伝える手段の中で、一番重要なのはビジュアルではないか?と考えたからである。うーん、今こう書くと腑に落ちるけど、当時はよく分からなかったなと思う。20年そこそこ生きて、私の自己分析力なんてそんなもんでした。
さて、とにかく大学は普通の文系だったけど、就活あたりかたら特にデザインを勉強したくなってしまった。でも家族のこともあり、進学ではなく就職を決めた。「大人になってからも、学び続けることはできる。」と力強く教えてくれた人がいたから。
彼に背中を押され、私は社会に出てから学び直すことを決めた。正確には、社会に出てしばらくしても、それでも学びたい思いがあるのなら、自分の心に従ってちゃんと学ぼうと決めたのだ。
デッドラインは2019年12月31日。この日までデザインを学びたい気持ちが強くあるのなら、次の一手をしたたかに考えていくことにしている。私の中の、ひとり約束みたいなものだ。
そんなわけで、日々「私って本当にデザイン勉強したいのかなぁ」とか、「なんでデザイン勉強したいのかなぁ」とかを考えている。
「学校行かなくてもデザイナーになれるよ」「そもそも大金出さないと学べないのはおかしい」「今の時代、iPad Proあるならインスタに投稿して独立すれば?」…いろんなアドバイスを貰った。
そのどれもが、多少なりとも納得感のあるものだったから、余計に悩んでしまった。
デザイナーに、なりたいのか。デザイナーに指示を出すまでのマーケティング的な上流を、担いたいのか。あるいは全部自分一人でやりたいのか。今でもハッキリした答えは見つかっていない。
「デザイン」という言葉は、近年あまりに溢れかえっている。グラフィックデザイン、マーケティングデザイン、コミュニティデザイン、デザイン経営、文章のデザイン、家族のデザイン、終わり方のデザイン、ソーシャルデザイン…。
もう、何が何だかわからない笑。デザインって、なんだそれ。もうよくわからないよ。言葉だけが一人歩きして、だんだん走りだしてスキップまでしてるのに、私はどうしても付いて行けなくなってしまった。そんな感じだ。
そして、そのことにみんな薄々気づいている。「"デザイン"って言葉、増えたよな」と思ってる。でも、もうどうすることもできない。走りだしたデザインを誰も止められない。
私が学びたいのは、何のデザインなのか?そもそもデザインとは何か?誰のためのデザインか?
やはりこれらの答えを探すために、もう少し時間が必要かもしれない。焦らないで行こう、道はきっと続いている。
自分に自信はなくても、自分が出会ってきた人たちの素晴らしさには自信がある
社会に出て約半年となる。
「シャカイジンってなんだよ、人は生まれた時から社会的な人なんだから社会人なんだよ、学生とそんな変わらんだろ!」と思っていたけど。
確かに社会人になると、諸々感覚が変わっていくような気がしている。労働の対価がかなり大きくなるし、自分でスキルアップしなきゃいけないし、日々の生活も体調不良も主に自分の責任だし、あとは飲み会が会社の経費で落ちたりとか。
ふんふん、社会人、全然悪くないぞ。むしろ楽しいぞ、という感じ。おそらく、私が学生時代に出会ってきた素敵な大人たちの影響もあるのだろうと思う。
社会に出ても学び続けている大人たち。学生の成長に寄り添って、尊重してくれる大人たち。学生の悩みにも向き合って、そして自分自身も悩みながら仮説検証を繰り返していく大人たち。
彼らの背中を見ていたから、社会人になることが嫌ではなかったし、楽しみであった。「ずーっと学生で、遊んでたい!」という人もいたけど、"あそぶ"ことへ大きな価値を見出せていない私は、むしろ早く社会へ出たかった。
そして不思議なことに、今も素敵な大人たちと一緒に仕事をしている。
いやはや、自分は幸運だなと思う。引き寄せてるのか、あるいはダメな大人は自分の中で完全に無視してるだけなのか分からないけれど、ともかく素晴らしい人たちと出会う確率の高さよ。色違いポケモン並みのレアキャラのはずなのに、草むらにバンバン現れてくる感じである。
私のエネルギーの源は彼らだ。
デフォルトで自分に自信がない私だけど、自分が出会ってきた人たちのことは、誰より素敵だと思うし、胸を張って自慢できる。それは自分の中で精いっぱいの自己肯定感の高め方である。
彼らと出会ってから私も少しずつ変わって、そしていつか自分にも、自信を持てたらいいなと思う。そうやって生きていきたい。