アンダルシアの犬

Un Chien Andalou

「見返りなんて要らない」自分に嘘を吐いて苦しくなった話

é¢é£ç»å

giveできる人間であれ。与え続ければ、必ず自分に返ってくる。そんな感じの言葉がよく目に入るようになった。

 

 

 

でも。与えるだけで見返りを求めないことは、本当に良いことなのだろうか?

例えば、キングコング西野さんのブログではこんなことが書かれている。(話それますけどこの人いつから「ビジネス界でも注目されるすごい人」みたいな感じになったんでしょう。キャラ転換に付いていけてません)

 

我々は、一つ親切をすると、その親切をした相手から、すぐに対価(見返り)を求めてしまいました。
「人に親切をして、本当に戻ってくるのかよー」と疑っていたからです。
 
ただ、今はインターネットによって、「恩送り」が、"恩を送られた当人以外"も確認できるようになりました。
 
『鶴の恩返し』を例に出すと、さいあく、鶴が恩返しに来なくても、あの物語の前半が『爺の恩送り』という絵本になって、お爺さんが無償で鶴を助けたことが可視化され、お爺さんの善意を僕たちが知れば、その瞬間、お爺さんのフォロワーが複数人生まれます。
 
すると、今度、お爺さんが困ったことに遭遇した時に、お爺さんを助けてくれるのは、鶴だけでなく、"鶴を無償で助けたお爺さんの心意気に胸をうたれた複数のフォロワー"も、そこに加わります。
 
インターネットを経由した『恩送り』は、まさにその状態で、
これまで第三者に見られることがなかった『恩送り』が、インターネットにより可視化され、第三者に見られるようになったことにより、「人に送った恩が巡り巡って自分のところに更に戻ってきやすくなった」といえるのではないでしょうか?
現代は『情けはマジで人の為ならず』です。

lineblog.me

 

ふむふむ。確かに!自分が恩を送ったとして、それを見ている第三者が必ずいるのが現代。だから恩を送る(与える人になる)方がいいよ、と。

 

 

 

腑に落ちる感じなのですが、要は「与えまくる超善人」になるのではなくて、「自分に返ってくることまで計算して与えまくる人」になると言うこと。戦略的ですね。まぁつまり、結局は見返りが欲しいと言うことです。

 

 

 

個人的に、私は与える人間になることばかり意識して、この「そうは言いつつ私だって見返りが欲しいんじゃボケ」みたいな感情をすっかり忘れてしまったような気がしています。あ、そういえば。みたいな。

 

 

 

ハンカチを拾ってあげたら「ありがとう」といって欲しいし、自分を大切に思ってくれる人には応えたいと思う。でも私なりの優しさを否定してくる人、何かを与えても全く反応してくれない人とは、激しめに言うとあまり一緒に居たくないと思う。

 

 

 

それは普通のことじゃないのだろうか?”見返りを求めてるやつ”=”嫌なやつ”なのか?誰でも心の底では求めていて、ただそれに蓋をして、良い人ぶって生きてるだけじゃないのか?と思ってしまう。

 

 

 

ボランティアでも何でも、「見返りはいいや」とか「何ももらえないけど頑張る」とか、「お金よりも大切な物を貰ってきた」と考えてやってきたけれど。それは、本当の心じゃないのだ。

 

 

 

私は見返りが欲しい。声を大にして言う。こう言う気持ちに鈍感になってしまうと、苦しくなって仕事を辞めてしまったり、人間関係を切ってしまったりするのだ。

 

 

 

giveし過ぎ人間になって自分を見失う前に、私はちゃんとtakeできる人でいたい。そうしないとね、自分を保てなくなってしまいそうなの。

 

 

 

なーんて、こんな気持ちに気づけただけでもものすごく大きな一歩です。今この文字を読んでくれている、あなたはどうでしょうか?「私だって見返りが欲しいんだ」と言う気持ちに蓋をして、どこかに放っておいたせいでホコリだらけになってたりしてませんか?

 

 

 

そうなってしまっても、多分大丈夫。ちゃんとホコリを払って綺麗にして、たまには蓋を開けてみよう。そして今度は、誰でも開けられるように、ゆるやかに蓋を被せておくのです。与える相手のことを考える前に、まずは自分自身を大切に。

なぜ日本人は北欧のインテリアとフランス人の服に憧れるのか

なんだか「北欧」とか「フランス」って、すごくすごく、「素敵なもの」として取り上げられている機会が多いのではないかな、と感じる。完全に主観だけど、これを読んでくれているあなたは、どうだろうか。そう思わない?

 

 

 

例えば、ちょっと古いけどこの本。 

フランス人は10着しか服を持たない (だいわ文庫 D 351-1)

フランス人は10着しか服を持たない (だいわ文庫 D 351-1)

 

 

 

いやいやいやいやいや、フランス人みんながみんな服を10着しか持っていないなんてありえない。「日本人はみーんな、毎朝お味噌汁と白いご飯と焼き魚を食べているよ。エライ!」みたいに言われたらどうだろうか、それは違うよね、コーヒーとか飲んでるよね?

 

 

 

というツッコミはさておき、とにかくこの本が売れたり話題になったりしたのは「フランス人への憧れ」みたいなのが潜在的にあるということの表れではないだろうか。パリ、古い町並み、美しい彫刻や絵画、流れるようなフランス語、金髪、蒼い瞳、フランスパン(?)…適当に書いたけど、こんな感じだろう。まぁ、確かに、素敵だと思う。

 

 

 

ヨーロッパやアメリカのソフトパワーにとても弱いのが日本人。これは戦後植えつけられてきたもので、今となってはもう当たり前というか、無言のコンセンサスという感じである。

(もちろんそうでない方もいらっしゃると思うんですが、筆者の実感としてそう考えている人が多い気がしているという事です)

 

 

 

そんな中、最近台頭してきた新キャラクターが「北欧」である。クラシコム「北欧、暮らしの道具店」とか。IKEAとか。マリメッコとか。

hokuohkurashi.com

www.ikea.com

www.marimekko.jp

 

 

無意識的に素敵と思わせる、ブランディングがうまい国の文化がガシガシと入ってきている。そのこと自体は、個人的には全然いい事だと思う。それが購買意欲を掻き立て、経済的な効果ももたらしてくれる。うん素晴らしい、ウェルカムである。

 

 

 

多分だけど、「ちょっと余裕(余白)があって、主張しすぎてなくて、でもデザイン性は高くて、すてき。」みたいな。そんな感じのものに、共感とか好スキが集まりやすいということなのかも知れない。そんな時代なのだろうか。

 

 

 

あるいは、私自身がすでに(潜在的に)そういうものを求めているのかも知れない。

 

 

 

う〜ん、分かんないけど、でも好きなものは好きなのである。最終的には、何についても憧れや惹かれることに対する理由なんて思いつかない。「手のひらの上で遊ばされていたとしても、別にいいや」なんて思えるんだから、思慕というのは恐ろしくも美しいものだ。

「居場所」という勘違い

ããMental Healthãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

居場所という言葉は便利だけど、実体がなくてふわふわしていると思う。英訳もしづらいから、本当に日本語独特の響きがある。

 

 

 

高校生の居場所づくり、居場所がない、居場所が欲しい、居場所事業、とか、”居場所”という言葉がごく自然に、日常に溢れている。とても複雑だけど、居場所とは「ここにいていいんだな」と思える空間や人のこと、と私は理解している。

 

 

 

Wikipwdiaによれば、このような定義がある。

居場所(いばしょ)とは、居るところ、また、座るところのことであり、自分が存在する場所のことである。 自分の持っている能力を一番発揮できる分野を指すこともある。 

 

 

ふむふむ。確かにそんなもののような気もする。居場所って聞くと無条件にポジティブな感じがするし、私だって居場所が欲しいなとか思う。

 

 

 

でも考えてみれば、居場所が欲しいってなんかおかしくないか?とも思う。というのも、もともと「自分が存在する場所」は担保されているにも関わらず、それでもなお「居場所」という言葉を使って、精神的に存在してもいい場所を求めているということになるのだ。この歌詞が頭を過ぎる。

 

 

 

心臓が始まった時 嫌でも人は場所を取る

奪われないように 守り続けてる

BUMP OF CHICKEN「カルマ」) 

 

 

 

そう、生まれ落ちた時から「居る場所」をとって当たり前なのだ。3人がけのソファに1人が座ったら、残りは2人分のスペースしかない。地球という場所(スペース)に「居る」=「存在する」のが人間であり、人間が知覚できる万物だろう。

 

 

 

でも私たちは、それだけじゃ満足できない。

 

 

 

「居る」のは当たり前で、「居る」からこそ思い悩み、苦しみ、そして精神的な”居場所”を求めるようになる。物質的な居場所と、精神的な居場所が確立して、ようやく幸福とか”生きてる”実感を得られるのだけど、もう少し物質的な「居場所」に目を向けてもいいかも知れない。

 

 

 

居場所ってなんだろう。言葉だけ見ると、縁側で暖かい陽が射していて〜、あはは素敵〜!ぽかぽか!みたいな風景が思い浮かぶけれど、きっとそんなベタなものではない。

 

 

 

「ここにいていいんだな」と誰もが思いたいはずの世の中で、否定されているという感じることもあるだろうし、逆に誰かを拒絶することで自分の輪郭がはっきりする幻想を抱くこともある。どっちにしろ、人は居場所を取るのだ。ソファの真横に座ってる人がどんな人か、気にならない人はいないだろう。

 

 

 

「ここにいていいのかも知れない」。

それがたとえ勘違いだとしても、勘違いじゃないとしても、その「かも知れない」の感覚。そんなほんのりとした柔らかい仮説みたいなものが、「居場所」なんかなと私は思う。

オールジャンル読書女子が選ぶ、心から読んでよかった本【2015〜2018年まとめ】

ãBooksãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

本が好きなのは、なぜだろう?とたまに思うけれど、理由なんてよく分からない。気がついたら本を読んでいて、それはごく自然なことなのである。忙しくて本を読めていない時、「あ、本が足りない」と思うし、自分の中で大切な本と出会った時に、「幸せだなぁ、大事にしたいなぁ」と思う。

 

 

 

ということで日々読書をしているわけだが、年末になると毎年「今年読んでよかった本」を決めている。今回、それをまとめてみようと思います。自分で読み返す為でもあるし、もし読んでくれる誰かが手に取ってくれたら嬉しいなと。

それでは、どうぞ。

 

 

 

2015年代表:『海辺のカフカ

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

 
海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

 

 村上春樹作品は好きなものが多いのですが、中でもやっぱり海辺のカフカ。私自身本物のカフカが好きということもあって贔屓にしてる感はあるのだけど。(本物のカフカは作中全く出てきません)君はどうしてそんなにめんどくさいの?って言いたくなる15歳の少年、カフカ君の物語です。

 

 

「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年になる」

―15歳の誕生日がやってきたとき、僕は家を出て遠くの知らない街に行き、小さな図書館の片隅で暮らすようになった。家を出るときに父の書斎から持ちだしたのは、現金だけじゃない。古いライター、折り畳み式のナイフ、ポケット・ライト、濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。小さいころの姉と僕が二人並んでうつった写真…。

 

 

村上春樹にありがちな突然の性描写や恋愛のどろどろした感じ、主人公の聡明なんだか馬鹿なのかよくわからない感じが、猫や老人の存在によってうまく中和されている。これを読んだときはぐんぐん読めたし、忘れられない一冊になった。以来村上ワールドにどっぷりである。エッセイも面白い。

 

 

2016年代表:『カラマーゾフの兄弟』 

文学作品。ロシア文学ってどうなのよ?と疑ってかかっていた私にガーンと衝撃を与えた一冊。 4巻くらいあるんだけど、どれも面白くハマっていました。寒い地域の人の作品って、やっぱりどことなく寂しさと哀しさみたいな物を湛えている気がしてしまう。

 

 

文豪ドストエフスキーの遺作にして最大の作品。第2部も構想されたが1部のみで中断。しかし空前絶後のスケールをもった小説が完成した。

帝政崩壊の予兆をはらむロシアのある町で殺人事件が起こり、ミステリータッチの衝撃的なストーリーが展開される。全4分冊、以下続刊。

 

 

亀山さん訳か、原さん訳かによって、多分また違ったタッチが楽しめるのだろう。海外文学の面白さは翻訳にある。

「え?!そこそんなことする?!」「何してんの君たちーーーーー」と、現代の日本人からしたらツッコミどころは満載だったりする。好き嫌いがはっきりと分かれそうな作品でもあるので、「こちゃダメだ」と思ったら中断してOK。

 

 

2017年代表:『蜜蜂と遠雷』 

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

分厚い、本屋さんで平積みにされている、表紙が素敵。

そのくらいにしか思ってなかった。でも、それだけじゃなかった一冊。

 

 

 

 そもそも私は通勤時間に本を読むことが多いので、ハードカバーの本はあまり読まない。手が疲れるし、重いし、高い。ハードカバーから文庫化するのを待つという、出版業界から見たらあるあるな消費者像だろう。

 

 

 

でもこの本は一気に読めた。文字通り、駆け抜けた。ピアノに関する本なんだけど、私はピアノが弾けない。それでも、惹き込まれるものが確かにあった。

 

 

3年ごとに開催される芳ヶ江国際ピアノコンクール。「ここを制した者は世界最高峰のS国際ピアノコンクールで優勝する」ジンクスがあり近年、覇者である新たな才能の出現は音楽界の事件となっていた。

養蜂家の父とともに各地を転々とし自宅にピアノを持たない少年・風間塵15歳。かつて天才少女として国内外のジュニアコンクールを制覇しCDデビューもしながら13歳のときの母の突然の死去以来、長らくピアノが弾けなかった栄伝亜夜20歳。音大出身だが今は楽器店勤務のサラリーマンでコンクール年齢制限ギリギリの高島明石28歳。完璧な演奏技術と音楽性で優勝候補と目される名門ジュリアード音楽院マサル・C・レヴィ=アナトール19歳。

彼ら以外にも数多の天才たちが繰り広げる競争という名の自らとの闘い。第1次から3次予選そして本選を勝ち抜き優勝するのは誰なのか?

 

騙されたと思って読んでほしい。それにしても、恩田陸さんの懐の深さよ。 本当にすごいよなぁ…。

 

 

2018年代表:『自分の仕事をつくる』

自分の仕事をつくる (ちくま文庫)

自分の仕事をつくる (ちくま文庫)

 

 小説ではなく、インタビューをまとめた本です。著者の西村佳哲さんは働き方とか生き方界隈で有名すぎる人ですね。学生時代に出会ってよかったと、心から思える本です。

 

 

仕事とはなにか。「いい仕事」はどこから生まれるのか。仕事を「自分の仕事」にするためにはなにが必要か。

八木保を、柳宗理を、ヨーガン・レールを、パタゴニア社を、ルヴァンを、象設計集団を、さまざまな「いい仕事」をする人々を訪ねて回った貴重な記録。働き方が多様になってきた時代、迷ったら立ち戻りたい働き方のバイブルである。文庫化にあたり新たに10年後のインタビューを2本追加。 

 

自分が生まれたくらいの時代から、こういった働き方をしている人がいること自体に希望を感じる。働き方ー!とかフリーランスー!とか副業ー!っていろんな人がメガホン持って叫んでて、情報が多すぎて一体何がしたいのか逆に分からなくなってしまう若者にこそ読んでほしい。

 

 

すてきな仕事って、こういうこと。ものづくりって、こういうこと。西村さんの言葉たちは、本当に力強いのです。

 

 

さいごに

人類の歴史の中で、こんなにもスマホやパソコンの画面を見つめ続けている人はいないだろうなと思う。そのくらい私たちは光を見つめていることに慣れているし、それが当たり前になってきている。でも私は、やっぱり紙の質感とか、表紙から読み取る意図とか、本に包まれる香りとか、そういうのが好きなのである。

 

 

 

たまには紙を見つめてやってください。

紙に印刷された黒い文字から、ここまで人の心を動かしたり、泣かせたり、笑わせたりできるのは、本の素晴らしいチカラだと思う。

 

 

 

そのチカラに頼りたくなった時。本は静かに、全ての人に寄り添ってくれるものだと信じています。


あなたとの出会いにありがとう。またいつか。