「有能」のレッテルにある棘
わりと何でもこなす方だと思っていたときが、ありました。
勉強したら、テストでもそこそこの点数が取れる。
仕事も、ちゃんと頼まれたこと以上のことをしようと努力した。
プライベートも、友人関係も、関わってくれる人は大切にしていた。
でも、何かが足りなくて、不思議だったんです。
「本当にすごいね」
「何でもできるね」
「器用だよね」
「弱音吐かないよね」
「自分を持ってるよね」
全て大切な友人たちからの言葉だけど、それらは心の中に、ちょっとだけ痛い棘のように引っかかってしまった。薔薇のように鋭利なわけじゃない。でも、確かにやわらかい部分に突き刺さっている、小さな黒い棘だ。
シンプルに受け止めて、これで良いのだ!と思えたら簡単なんだと思う。でも、私は周りからそんな感じで見られてるのかと、少し落胆してしまった。
確かに、多くの人から見て有能な人っていうのは、どのコミュニティにもいると思うのです。すごいなと思う人なんて、挙げ始めたらキリがないくらいに。
でも、彼らは「有能」でも「万能」ではない。万能な人間なんて、あり得ない。
いつの時代も完璧になりたがりな私たちだけど、同時に完璧になれないことは、自分たちが一番よくわかっている。
たまに「あの人も私と同じ、人間なんだよなぁ」と考えると、なんとも言えない気持ちが襲って来る。同年代で活躍する有名人、海外のモデルやセレブ、好きな女優とかアーティスト、憧れるクリエイター、可愛いあの子、カッコいいあの人。
「え、まだ17歳なの⁈(私がそのくらいだったときとは、全然違うなぁ…!)」と。
正直そんなの、信じたくない。ってくらい、「いいなぁ」と嫉妬するとともに、「色んな人がいるなぁ。いていいんだなぁ」と、多様性を感じてほっとすることもある。
時間は平等に降ってくるはずなのに、こうも違うカタチをしているものなのか。
生まれたときのカタチは同じようなものなのに、人は成長するとこんなにも違ったカタチをしている。当たり前なんですが、それはすごく不思議だと思う。
もし、誰かに「有能」のレッテルを貼っていることに気付いたなら、その人の一面的な部分しか見れていない自分を省みることをしたいな、と思う。
理解と勘違いは紙一重で、もしかしたら今考えてること、感じてることの全てが勘違いなのかも知れない。理解したいという気持ちはエゴイスティックなのに、どことなく優しい雰囲気が薄い膜のようにへばり付いている。
レッテルも言語によってニュアンスが変わる。時代によっても、年齢によっても、もしかしたら性別とか、趣向によっても変わってくる。
理解したいのにな、でもレッテルを貼るのとは違う、理解の仕方が必要なんだろうな、でもでも。他のやり方なんて、手探りで泥臭くて時間をかけて、自分の頭と手で考えるしかないじゃんか。
それが、理解であり、勘違いであるのかも知れない。どんなに優しい膜に包まれていたって、棘は必ずある。
その棘を猛毒と捉えるか、刺激と捉えるか、あるいは自分の中にある黒い塊を溶かすものとするか、それは、多分誰もわからない。