生きづらさを嘆いて"生きやすい人生"を探したとして君は
"生きづらい"という言葉をよく見るようになったのは、ここ2-3年だと思います。私自身の変化もあるんだろうけど、LGBT、外国籍、女性、障がい等、多様性を認める動きが社会全体として盛んであることは事実ではないでしょうか。
昔、私は"生きづらさ"を抱えた人たちの力になりたいなと思っていたことがありました。昔っつっても去年とかですけど。自分の周りに家族問題で悩んでいたり、トラウマが抜けなかったりする人が結構いて、彼らを助けたいな、と思ったんです。
彼らが"生きづらい"と感じるに至った原体験は本当に多種多様で、親のネグレクトだったり、心無い一言だったり、自分の体や精神のことだったり、とにかく一つにまとめられるようなものじゃない。傷の深さも、それを伝える力も、もちろん人それぞれです。
どんな状態からでも、前を向いて逞しく生きる人たちはカッコいいし、少しずつ表情とか行動だとかが変わっていく過程を見て嬉しくなったりもする。そういった事例は、私も大好きなwebメディアのsoarでも紹介されています。どの記事も人に光を当てていて、読んでいて心が満たされる暖かい言葉が並んでいて。「ああ、なんて素晴らしい心の強さを持った人たちなんだろう」とインタビューイーを眩しく感じられるメディアです。
そう。とてもとても素晴らしい。素晴らしい…の、だけど、何故だろう。いつからか、じんわりふんわりと違和感が生じてきたんです。
それはきっと、"生きづらい"って、そもそも何だろう?という疑問から生まれたものでした。こんなに沢山"生きづらさ"について語られているけど、うーん…よく考えてみて。"生きづらくない人"なんてきっといないよね、と。
まぁ「生きづらいと感じてない人が生きづらくない人」なのかも知れないけど、その"生きづらくない人"にも大なり小なり生きる上での苦しさや難しさはあるわけで。
なんというか、生きづらさを強調することに慣れ過ぎて、少し辟易してきたんだと思います。バズワードになりすぎた感が抜けないです。
私は五体満足で、今のところは障がい、病気、いじめ、虐待もなく(少なくとも私は認識していない)幸せに生きているけれど、それでも"生きやすい"とは言えません。私には私なりの苦しさはあるけど、それはもちろん多くの人が発信している文脈の"生きづらさ"とは違うものだと思います。
何より怖いのは、生きづらいという言葉によって、自分は周りと違うんだ、と線を引いてその線に固執してしまうことだと思います。本当は、その線の向こう側だってそんなに変わらないのに。そんな線、ふやふやにボヤけてしょっちゅう変わるし、そもそも存在してるかどうかも分からないのに。
なんかこれ、ちょっと難民と似てますよね。
ヨーロッパに行ったって何日も劣悪な状態で待たされて新しい言語を一から覚えて低賃金で働かされるだけなのに、難民たちは「ドイツに行けばなんとかなる」と夢見て、高額なお金を払って密航業者とと共に越境する。"向こう側"に対してどうしようもなく夢を見てしまう。
生きづらい、生きづらい。そう悲しむ時間も必要だし、どうしようもなく周りの人間が憎くて苦しくて妬んでしまっても別に良い。あなたにしか理解できない生きづらさがあるだろうから。
でも、周りが生きやすくてたまらないヘラヘラお気楽人間の有象無象でないことは、忘れちゃいけないと思うのです。
るんるん過ぎる生きやすい人生もね、きっと幸せではないんですよ。だってほら、あの石原さとみだって悩んだりコンプレックスあったりするわけですよ、分かります?隣の芝生はどこまでも青くて、自分の庭はいつまでも真っ黒なまま。きっと死ぬまで同じです。
だから、どれだけ早く勘違い出来るかが鍵かも知れませんね。「あれ?私の庭…もしかしなくてもめちゃくちゃ綺麗じゃない????」って。きっと次の瞬間から青々と水を弾く美しい花が顔を出すから。
結局みんな無い物ねだりを辞められないんだと、私は思ってしまいます。