わたしの戯言雑記

りあるボイス

来来来世の人生設計をしよう

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来世は火星人になるつもりです。

火星人というと少し語弊があるかもしれないのですが、詳しく述べると火星で生まれた元地球人。性別は女の子がいいなぁ。なんやかんやで女の子、楽しいですからね。

 

 

 

来世の頃には地球人の多くが火星へ飛び立っていて、ひいひいひいおじいちゃんくらいは地球で暮らしていたことにしよう。地球を半ば捨てたような形で新しい地へと踏み出した我ら"火星人"の姿は、地球中で常時AR中継をされたりしている。地球と火星はいつも繋がっているのだ。

 

 

 

来世は人類が新しいタームを迎えたと言って問題ないだろう。

人はあらゆる偶然が重なった結果、急速に発展し、コミュニケーション手段を巧みに生み出し、助け合い、殺し合い、地球を破壊しながらついには宇宙というフィールドを本拠地にするまでに至った。もはや彼らの人生が地球だけで完結することはない。自ら望んで意図的に生活範囲を拡大した。人類は二次性徴を果たしたのだ。

 

 

 

そんな中で私は火星で生まれることになる。

 

 

 

地球へ行くのは簡単だけど、地球はもう住みづらくなってしまっている。天候はあまりに激しく、資源は底をつき、生物はほとんど残っていない。言うまでもなく、人類が破壊してしまったためだ。

 

 

 

ああ、かつての地球の姿とは一体どんなものだったのだろうか。

 

 

 

透き通る水と萌える緑の惑星、地球。そこで生まれたらしい沢山の叡智が火星学を発達させてきた。かつての地球に想いを馳せることは楽しくて切ない。もう決して文書や動画に残る地球の姿を、人類が目にすることはないのだから。

 

 

 

火を起こして暮らしていた時代、人間とは何かと問うていた時代、科学技術の可能性に目を輝かせていた時代。新しい発見が次々と生まれて、芸術やエンターテイメントが発展したりもした。今でも形を変えて残っているものはあるけれど、そんな新鮮な感情は今の私には持ちようが無い。

 

 

 

紙とペンを使っていた時代、人はどういう気持ちで机に向かっていたのだろう。確実に不便なその状況だからこそ、私には持ちようがない感情があったはずだ。当たり前だけど、今と昔は違う。

 

 

 

誰かを思って空を見上げても、空は青くない。

風は季節を知らせてくれない。

お日様の香りなんて分からない。

 

 

 

地球の自然の中で生きた先人を羨む。なんて贅沢な環境で暮らしていたのだろう!いいなぁ。強すぎる人工の光じゃなくて、嫌になるくらい正確な人工の生物でもなくて、本当に原子や細胞のはたらきによって生まれた地球上の自然を、地球人はどうして愛せなかったのだろう。愛しているが故に、壊してしまったのだろうか。

 

 

 

そんなことを考えながら、身体が次第に火星に順応していくのを静かに感じる。私の祖父母は、まだ火星で暮らすのはどことなく息が苦しい、地球のようにはいかないと嘆いていたけれど、私はそんなの微塵も感じない。目が、皮膚が、臓器が、環境に合わせてミクロレベルで変化しているんだ。

 

 

 

私は地球人(地球に生まれて地球で暮らしてた人)と結婚する。だけどついには地球での生活は危険とみなされ、全人類に地球進入禁止令が発動される。地球と人類の、永遠の別れだ。

 

 

 

地球上の自然を見せてくれるバーチャル技術は素晴らしいが、結局は紛い物である。私の子どもは一生地球に足を踏み入れることはない。

 

 

 

新しい惑星を求めて、人類の歴史は早々に次のステージへと動き出す。図太く、いやらしく、素早く、小賢しいのが人類だ。生き残るためだったら、手段は選ばない。絶望するほど自己中心的。だけど仕方ない、そんな地球人の血が、私にも通っているのだ。

 

 

 

そして最期は地球と家族を想って目を閉じる。そんな来世にするつもり。

 

 

 

なーんてたまには妄想から逆算して、現世はどんな風に生きようかって考えたっていいじゃない。

地球さいこー、あいしてるよ。

君の履歴書は誰も添削することができない

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日本の4年制大学卒業を控える、若者の就職活動はとても不思議なものです。

なんといっても大学4年生は一斉に「ヨーイドン」と就職活動を始めるのです。人によってばらつきはあるけれど、大体3年の夏〜4年の春の間にスタートダッシュを切ります。

 

 

 

また、大体みんな同じ格好をして面接や説明会に挑みます。

男性は真っ黒のスーツにピシッと決めたネクタイ、革靴、清潔感のある黒髪と腕時計。女性はこれまた真っ黒なスーツにストッキング、撫で付けた黒髪、そして薄めの化粧。この際に着用されるスーツは"リクルートスーツ"と呼ばれ“リクス"と略されることもあります。

 

 

 

そして特筆すべきは、なんといっても「履歴書」ではないでしょうか。

 

 

 

学生たちは、大学から指定された履歴書を生協などで購入して使ったりします。自分でデザインし、あれやこれやと試行錯誤してレジュメを作り上げる海外とは異なり、定型が用意されているのです。

 

 

 

そして顔写真は必須です。

イケメン、美女が有利になることは目に見えていますし、肌の色が違えば確実に(良くも悪くも)人事担当者の目に付きます。

 

 

 

なんかの研究で、丸襟よりVカットのシャツを着た人の方が採用率が高いというものがありましたように(バイリンガルニュースで紹介されてた研究かな)、人は無意識のうちに様々な要素を加味してしまいます。

 

 

 

日本では、スキルだけでの勝負は無理なのです。「スキルが同じなら、やっぱり美人と一緒に働きたいよねぇ」という、悲しい本性が深層心理にあったとしても、それが普通にまかり通るのです。ほんとクソだよな。

 

 

 

「まぁ結局人は見た目が100パーセントだよね、仕方ないよね」と納得してしまうのも日本人的であるように思われます。そこに反骨心があっても、淑やかに受け入れて図太くどす黒い気持ちを育み続けるしかない、ええ。やはり日本人のこういった側面は精神的に病みやすいのだと思います。

 

 

 

そして、履歴書には「自己PR」というものがあります。大抵は"学生時代に力を入れた事"について書きます。これは"ガクチカ"と略されることもあります。この辺りにも日本の就活の闇を感じるよなぁ…。

 

 

 

このガクチカは学生にとって非常に重要です。 生まれてから小中高大と進学してきた経緯や部活動、課外活動などを洗い出して、自分の出来る部分を強調し、アピールすることができるためです。

 

 

 

しかし採用担当者はそんなガクチカを腐るほど見てるため、テキトーに書いていてはバレます。10分そこらで思いつくガクチカは所詮その程度。バサッと切り落とされて益々のご活躍をお祈りされるだけです。

 

 

 

学生たちは美しいガクチカ、最高の履歴書、あるいは完璧な面接の受け答えを作り上げるために、先輩やキャリア支援センターの教員にすがります。そう、履歴書を見せて添削してもらうのです。

 

 

 

ですが、自分が書いた文章を誰かに書き直してもらうということは、もはや自分では何も書いていないのと同義のように思われます。

 

 

 

そんな感じで私は自分の履歴書を添削してもらうことだけは避けていました。

「なぜ私が書いた文章を、どこの馬の骨とも分からんやつに書き直されなきゃならんのだ」と思うからです。随分強気だなぁオイ。

 

 

 

謎すぎるプライド…。アフィリエイトも有料商材もアドセンスもなく、ただ淡々と思ったことを綴りたい、反応なくても問題ないんだけど反応があったらあったでめっちゃ嬉しいよね、というスタンスでブログをやってるだけの事はある気がします。勝手にやってるだけなんですけど。

 

 

 

どのエピソードを抽出するかの相談とか、文章構造に対する指摘ならまぁ分かります。だけど、「ここの言葉もっとこうした方がいいよ」とか「こんなのどう?!」みたいなのはやめて欲しいなぁって。

 

 

 

だって数え切れないほど多くの言葉から一つひとつを選び、自分の頭で考えた分析と経験を小さなスキマに凝縮して紡ぐ過程にこそ、その人の真の性格が現れると思うから。

 

 

 

背伸びし過ぎて就活してると、就職した後から辛くなってしまう。だから今の自分を知るという意味でも、自分で自分の思考を言葉にすることは重要なはず。

 

 

 

どういう言葉を使うのか、それはあなたがあなたを物語る一番のアピール材料だと思う。もし「なんか上手いこと言えんなぁ」と思っても、これからの伸び代がめちゃくちゃあるということなのだし。今考えられる力の全てをもって取りかかって欲しい。

 

 

 

要は自分の言葉を大事にして欲しいと思う。

 

 

 

口から溢れる言葉は水道水みたいで、それぞれ同じような水でも、舌がざらつく苦い水があり、とびきり綺麗で繊細な水もあり、クセになる旨みを持つ水があったりする。どの蛇口をひねっても"水"が出るけれど、その水には必ず、絶対に差がある。

 

 

 

変えようと思って、3-6ヶ月ぽっちで変えられるものではない。言葉が"溢れる"という表現通り、それはどう頑張ってもあなたを表現してしまうのだ。

 

 

 

ブログを見ていても、色んなブログにその人らしさが現れる。それはブログのUIだけでなく、何より言葉が、選ぶトピックスが、書き手自身を表現してしまうからだと思っています。

 

 

 

ケンカは自分の拳でやりましょう。自分の代わりに誰かに殴ってもらおうなんて考えないで。誰かを殴ったら自分の手だって痛いし、その痛みがあなたに責任を思い知らせてくれる。さぁ責任を持って殴りかかろう。

 

 

 

まぁ、これは就職活動の話なんですけどね。

興味はナマモノだから冷蔵庫に入れとけ

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暑過ぎて冷蔵庫を開けるたびに「幸せ~~」ってなる季節ですね。

「暑いですねぇ〜!」が挨拶ですよ2018夏。記録的猛暑!って毎年言うよね。あれは何なの?地球寒冷化はどうしちゃったの?!という感じですまったく。

 

 

 

そんな感じで夏休みなんですが、夏休みというと思いだすのが小学校のころの夏休み。あの宝石みたいにキラキラした眩しくて高揚して仕方がなかった日々も遠い昔のことのようです。

 

 

 

皆さんは小学校の頃、好奇心旺盛な子どもでしたか?

 

 

 

私はどっちかというと今も昔もインドア派なので、虫採りとかサッカーとか野球とかはせず、絵を描いたりおままごとしたり、わりと女の子女の子してました。

シルバニアとかね。分かるかな、シルバニア…。今も実家のロッカーにあるんですよ、あのうさぎさんたち。

 

 

 

でも小学校の頃の自分はひねくれてて、「毎日つまんねーなー」と思っていました。高校生になるまで、夢もなかったです。

 

 

 

「ケーキ屋さんになりたいの」「お花やさんになる!」「先生になるんだ」ってみんなが夢を語っている中、私は1人「どうしよう…職業なんて10コくらいしか知らんけど、そこから選ぶなんてマジ無理」とか思ってました。

 

 

 

好奇心なんて殆ど持ってない冷めた子どもでした。親は共働きで家にいないから帰ってきても暇で、料理したりパソコンしたり、野良猫にエサあげたりしました。超地味!!!!!!やる事ないんだもんだって!!!!!

 

 

 

そういう意味では、私の場合、今の方が子どもの頃より圧倒的に好奇心旺盛な人間になっています。大人になるにつれて色んなことに興味を持つようになっています。なんでだろう、不思議だ。

 

 

 

今関心あることをざっと並べると…

ソーシャルデザイン、コミュニティ・グラフィック・コミュニティデザイン、Tak ram、地方創生、建築、安藤忠雄、美術、広告、版画、コピーライティング、AI、RPA、VR、海外文学、海外ドラマ、podcast、Tesla、宇宙開発、環境問題、絶滅危惧種、包装紙削減問題、哲学、ガブマル、V系音楽、洋楽、夏フェス、ジャズ、C言語、WEBメディア、プログラミング教育、ホリエモンの学校、polca、チェコカフカゲーデルエッシャーバッハ、ミュシャフェルメール、教会、聖書、HBO、GOT、美容、肌断食、とかとかとか…!

 

 

 

これプラス時事的なアンテナを張ってたりすると、毎日何かしら「ピコーン!」てなります。日々アップデートしてるので、それぞれのイベントとか動向を追うのが楽しい。わくわくする。

 

 

 

そして自分と全く違う分野の人の話を聞くのもすっごく楽しいです。私大文系なので、理系の人とか専門学校の人とか、NPO職員とか海外駐在員とか、とにかく自分と違う立場の人たちと話をすることが大好き。

 

 

 

なんでこんな好奇心旺盛になったのか、理由は良くわかってないのだけど、でも良い意味で放置されていた幼少期の影響かも知れないと思っています。

 

 

 

マジでほっとかれてたから、"毎日を自分で面白くしていくしかない"と思うようになっていったんですね。普通にしてたらつまらなくて死んでしまうわ、と。習い事も自己責任で、「やりたい!」って言わないとやらせてくれませんでした。

 

 

 

放っておいてもなーんも楽しくないから、自分で調べるっていう積極性は身に付いたはずだと思っています。時代も手伝って、なんでも調べたら出てきますから。疑問に思ったこと、全部PCで調べて、そこから興味を引き出していくのが当たり前でした。

 

 

 

PCだから悪いとか、そういうことはもちろんないと思っています。むしろそのお陰でブラインドタッチは当たり前だし、デジタルネイティブと言われてもまぁそうかと思える。色んなことに手を出して、触れて、考えて、想像して、言葉にして、また次のステージへ立ってみるというようなことを自然と出来るようになった気がしています。放置してくれてありがとう両親。過保護過ぎると親の影響が大きくて子どもの自主性は損なわれるのかもなぁ。

 

 

 

ただ最近感じるのは、その興味は放っておくとすぐに消え去るということ

 

 

 

調べれば何でも出てくるって、見方を変えると恐ろしいことで。例えば昔はたった1冊の本を手に入れることも難しくて、思いを馳せたり人に聞いたり言葉の意味を反芻したりしていたはずなんだけど、今はもうそんなことをしなくても十分分かった気になれる。

 

 

 

腰を据えて考える時間とか、「何でだろう?」って気持ちを持ち続けるのが難しいんだと思います。

ほら、今はLINEとかInstagramのストーリーとかで好きな人と繋がれるけどさ。昔は手紙が来ただけで、少しすれ違っただけで、パーティーで見かけただけで「キャーーー!」ってしてたはずで。でも私たちはもうそんな「キャーーー!」な感情は持てないんだよ。なんかちょっと悲しいような気もする。うん。

 

 

 

鷲田清一さんとかは、『「待つ」ということ』という著書の中で同じようなことを書いています。"現代人は、待つ事ができない"って。

「待つ」ということ (角川選書)

「待つ」ということ (角川選書)

 

 

 

何でもかんでもググってしまう。自分の目で見なくたって、誰かの「いいね」がたくさんついたツイートで満足しちゃう。

本なんて読まなくたって、YouTube見た方が早い。

サジェストしてどんどん見せてくれるから、買い物だって深く考えなくても問題ない。

インフルエンサーが言ってることの方が説得力あるし。著名な人が書いた論文にも簡単にアクセスできる。

 

 

 

そりゃ、そうだよな〜〜〜~~~!

だって楽だし/(^o^)\

 

 

 

楽なんだけど、それだと薄っぺらい思考になるのは避けられない気がしています。事象の背景や主張の裏にある意図とか、1つのフレームの中でしか語られてないものを真に受けることは、考えることを放棄していることだと思う。

 

 

 

なのでやっぱり、その興味を持ち続けること、言い換えると一度検索しただけじゃ満足しないレベルの探究心を持つことは大事だと思う。

 

 

 

それは何もクソ難しいものではなくて、例えば読みたい本を記録しておくとか、スケジュール帳に書き込んどくとか、そういうことから始まると思う。今の新鮮な気持ちを、ずっと忘れないでいることなんて無理。だけど戻ってこれる引っかかりを作っておきたい。

 

 

 

被災地への対応とも似ているかも知れない。

家族とか友人がいない限り、被災地に対して毎日想いを馳せることなんてしない、というか無理だ。でも、たとえ心に受けた衝撃を毎日は思い返さなくても、その時の感情を思い起こす作業を、1年に何回かはしてみる。

「忘れない」って、四六時中そのことばかり考えるんじゃなくて、ちゃんと興味を保存して置けること。信念をもって無関心になることを拒絶すること。そういうことだろう。

 

 

 

忘れないこと、待ってみること。

これって難しいんだよなぁ。でも大事にしたいなぁと思う今日この頃です。

 

 

 

とにかく、興味はあなたの中の冷蔵庫にちゃんと入れときましょう。暑さにやられて、崩れてどろどろになって、気付かないうちに消えてなくなる前に。